牙はとっくに折れている


 事実だけの私の話を一通り聞き終えたジャーファル様は、表情を曇らせた。私と相対するときは滅多に表情を崩すことがない彼にしては、珍しいことである。

「なるほど、事の経緯は分かりました。……が、どうにも分かりませんね」

 彼の不満は表情だけでなく声色にもありありと滲んでいて、なぜだかそこに初めて彼という人間を見た気がした。今までの彼の声色は不自然な程に穏やかで淡々としたものであったせいだろう。彼はいつも感情の見えない声をしていた。それが今はどうしてだか無くなったものだから、私も少し戸惑ってしまったのだ。
 酷い風邪をひいたときのようにかさついた喉では、しっかりと意志をもって声を発しなければ、情けなく掠れて消えてしまう。なんと答えるべきか決めかねた返事は、案の定喉に引っかかって音にならなかった。するとジャーファル様は、呆れとも苛立ちとも取れる溜息を吐いた。

「貴女は、私が何を聴きたかったのかを分かっているはずです。はぐらかさずに話して頂きたいのですが」
「事実だけでは、いけませんか。私の心情など聞いて、一体何になるというのです」
「……王が一番知りたかったことのはずなのですよ、今回の貴女の行動の動機は。それなのにあの人は感情的になって、突き放すようなことまで仰られた。ならば私が訊くしかありません」
「でももう、私を見限ったなら、今更どうだっていいのではないでしょうか」
「あれは本心からのものではなく……感情が高ぶるままについ口が過ぎたのです。少なくとも、その言葉通りに貴女を突き放せば後悔するのは目に見えています」
「後悔、ですか」 
「やはり、貴女の動機まで含めてきちんと事態を把握してから判断するべきだと思いますから」

 そう言ってジャーファル様は、真っ直ぐに私の目を見た。私と向き合おうとしてくれているのを、揺るがない視線から悟る。王が一時の感情から早まった決定をしてしまわぬように、従者として最善を尽くそうとしているのだろう。私という厄介者を追い払える折角の機会だというのに、彼はどこまでも真面目な政務官らしかった。王の言葉に従って突き放すとて、内情に多少とも触れてしまった人間をそう簡単に自由には出来ないということもあるのだろうけれども、私への負の感情に流されない冷静さは覇王の右腕たるに相応しい。
 それには敬意を表するべきだし、私などが烏滸がましいのは承知の上で、その冷静さを以てシンドバッドを支えてきたことに敬服し感謝したいと思った。不意に覚えた羨ましいという感情には、気づかないふりをする。ある程度力を入れなければ声にならない喉を恨めしく思いながら、私は言葉を紡いだ。

「何をお話しすれば良いのですか」
「なぜ、毒を飲んだのです? そもそも賭けなんて持ちかけたのはどうしてですか。貴女ならそんなことをせずとも、力で圧倒出来たはずでしょう」
「……だからですよ」
「え?」
「私は、誰かを傷つけることが好きなのではありません。いつだって、出来るなら、誰も傷つけたくなんてなかった」

 けれども、私には攻撃的な魔法しか使えない。人を殺すことばかりの半生を送ってきた。それは命令だから仕方ないと言い訳をしながら、たくさんの命を奪って生きてきた。逆に言えば、命令が下されないなら私自身は他に殺す理由など一度だって持ち合わせていなかったし、傷つける理由だって無かったのだ。
 今回のこともそうだ。命令が無いのだから、攻撃をしたくないというのが私の本心である。確かに奴らは悪党であるけれども、言ってしまえば私だって悪党なのだから、私には彼らを断罪することなどできない。私と奴らは同じだ。それなのに正義を気取って傷つけることなど重かったし、もしも間違えて殺してしまったらと思うと身震いする程恐ろしかった。

「私が毒を飲んだところで、そうそう死にはしません。人々を逃がすことが出来れば、あとは逃げた人々が事態を誰かに伝えてくれるでしょう。その誰かが来るまでの時間稼ぎになればと思ったのです」
「ですが、間に合わなかったら……」
「…捕まっても…あるいは売られても、私一人なら自力でどうにか出来ます。……仮に死ぬようなことになっても、いっそ本望だろうと思っていました」

 重ねた掌をきゅっと握りしめる。強張った指先は未だ冷たい。嗚呼、ひょっとしたら、これは死の冷たさなのかもしれない。これは都合の良い夢、やはり私は本当は死んでいるのだ──

「私は……そしておそらく王も、貴女が致死量の毒を飲んだのは、そうすることで死ねると考えたからだろうと思っていました」

 ジャーファル様の言葉を、私は敢えて否定しなかった。否定するだけのものを私は持っていなかったし、否定する意味も見いだせなかったのである。ジャーファル様は僅かに私の言葉を待ったようだったけれども、沈黙を受け取ると諦めたように続きを話し始めた。

「事情を訊いていくうちに、とどめとなったのは貴女の意志によらず無理矢理流し込まれた分だということが分かりましたが、それでも、貴女のその他殺願望が動機の一端だと思っていたんです。……さっき貴女は言いましたね」

 『私、まだ生きてるの』──あれは、どういう意味だったんですか。
 無言を貫く私に、ジャーファル様はいっとう真面目な顔で問う。

「王が激昂したのは、『漸く死ねるはずだったのにまた死ねなかった、口惜しい』と、そう受け取ったからです」

 え。
 掠れて声にならなかったけれども、思わず見開いた目でジャーファル様には伝わったらしかった。合点がいったというように息を吐いて、「その反応を見る限り、やはりそうではないのですね」ひとつ頷いた。
 やはりというのはどういうことだろう。確かに私はそういうつもりで言ったのではなかった、それは正しい。しかし、ジャーファル様には分かっていたとでも言うのだろうか。

「私も最初はそう思いました。ですが、今の話を聞いて『死を覚悟していたけれど杞憂だったらしい、良かった』という意味だったのではないかと」

 『良かった』
 そうか、私はあのときホッとしていたのか。ジャーファル様の口から放られた言葉が、不思議なほどすとんと胸に落ちる。自分の感情のはずなのに、目から鱗が落ちるような気分だった。実際に落ちてきたのは温かい涙で、冷えた頬にじわじわと温みを伝えて流れていった。

「死にたかったのではなかったのですか」

 心なしか優しく聞こえる声に私は首を振って答える。

「私は、自分で思っていたよりずっと、死にたくなかったようです」

141017 
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