痛みを知る世界


 苦しさを自覚した途端、溢れてくる涙の量が増したような気がした。ヤムライハやピスティがおろおろしているのを肌で感じながら、まだ思うように動かない手で涙を拭う。それでも涙は次から次へと零れてくるから、どうしようもなくて掌で顔を覆った。こんなにも浅ましい涙など、さっさと止まるか涸れるかしてくれたら良いのに。ヤムライハらしき手がそっと肩を抱いてくれたけれども、だからといって涙がどうにかなることもなく、苦しさも消えなかった。あまりにも自分勝手だ。こんなことなら、さっき潔く終わっておくべきだったのかもしれない。

「ヤムライハ、ピスティ。少し席を外してもらえますか」
「えっ、でも…」
「心配しなくても病み上がりの方を虐めたりはしませんから」

 いつの間にか部屋に戻ってきたらしいジャーファル様が言う。穏やかな口調でありながら、言外に有無を言わせぬものがあった。渋々といったようにヤムライハの手が離れていき、ヤムライハとピスティ 二人分の気配が遠ざかる。彼女達が部屋の外へ出て行くと、自分の嗚咽が余計に大きくさもしく響いた。嗚呼、嫌だ、情けない、浅ましい。必死で嗚咽を殺して、掌をより強く押しつける。少しでも涙を抑えられるかと思ったのだ。
 しかし、そうはならなかった。するりと手首を掴まれて、決して強くはない力で引かれる。不意のことに拒む間もなく、顔を覆う手はあっさりと外されてしまった。この部屋には今私とジャーファル様しかいないから、手首を掴んだのは当然ジャーファル様である。私を良く思っていない彼がわざわざ手を伸ばしてきた意図が分からず、呆けてジャーファル様を見つめた。ジャーファル様も無表情に私を見ていたけれども、やがて静かに息を吐いた。

「頬、すっかり赤くなっていますね。冷やさないと」
「……い、いいです、別に」
「そうは言っても、目も頬も腫らしては部屋の外にも出られないでしょう」

 ジャーファル様は予め用意していたらしい氷嚢を私の手に乗せると、指先に上手く力が入らないことに気がついているようで、自分の手で私の手を覆うようにして氷嚢を包ませた。そして、「頬と掌とで挟んでおけば落としはしないでしょうから、ちゃんと押さえていて下さいね」とまるで幼い子供に言い聞かすかのように言い、私の手を頬にあてがわせる。頬に沁みる冷たさと手に添えられたジャーファル様の手の温度がどうにも痛くて、驚いて、涙が引っ込んだ。引っ込みきれなかったらしい水分は余韻のようにじわじわと眦を濡らしているけれども、もう溢れてはこない。
 すんと鼻をすする。添えた手を離して居住まいを正したジャーファル様と目が合った。その瞳から何を考えているのか計り知れないのは相変わらずで、やはり私は彼が言葉を発するのを待つしかない。ややあってから、彼はぽつりと言った。

「王から言伝があります」
「……はい」
「『もう勝手にしろ』…だそうです」
「…っ、はい」

 ヤムライハやピスティを退室させたのは、この言伝のためだったのだろう。
 予想はしていた言葉だったというのに、その言葉の鋭さに息が詰まる。直接シンドバッドの口から聞いていたなら、今の比ではない鋭さを以て胸を貫かれていただろうと思いながら、ゆっくりと息を吐き出した。一緒に、何もかもを吐き出してしまいたかった。泣きたいような嗤いたいようなちぐはぐな胸の内が気持ち悪い。
 じっとジャーファル様に見られているのに気がついて視線を落とすと、自分の手の血色があまりにも悪くて驚いた。指先を動かしてみようとしても、僅かにしか動かない。ふと、この手は元通りに動くようになるのだろうかということを考えたら怖くなった。もしもこのまま治らないなら、きっと杖どころかペンも握れまい。杖を握れなくなった魔法使いの末路など、想像するだけでぞっとする。ひょっとすると、動かないのは指先だけではないかもしれないのだ。脚もまともに動かせないとしたら、私はこれからどうやって生きていけば良いものか見当もつかない。
 こんな状態で生きていたところで、どうせ。
 しかし──これが罰だというのなら。私は甘んじて受けねばならないだろう。命が続く限り生きねばならない。
 叩かれた頬が、痛みを主張している。その痛みがあるからこそ私は生きているのだと実感するし、叩かれた事実もまた明晰になるのだ。

「私は……ついに見限られてしまったということですね」

 嗄れた声が思わず震える。

「迷惑ばかり、かけて。恩を…仇で返してしまいました」
「……そう、でしょうか。私には王の真意は分かりませんし、口を出す権利などもありませんが……あれはきっと本意ではなかったと思います」
「…………」
「王はまだ貴女を憎からず、」
「分かっています…、憎まれているのでないことは。だってちゃんと、頬が痛い」

 それはボルグが発動しなかったからであって、つまり──そういうこと、なのである。だからこそ、私は苦しいのだ。
 震えた声は我が声ながら聞き苦しい。氷嚢の冷たさがすっかり沁みて冷え切った頬と指先は、もうずっとこのまま、二度と熱を取り戻さないのではないかと思った。生きている限りきっとそんなことはないのだろうけれども、温かさの類いとは完全に切り離されてしまったような心地がして、体の芯まで寒い。

「……ところで、奴らは……奴隷狩りはどうなりましたか。捕まった人達は……」
「奴隷狩りは牢に。人々は、皆無事です。毒の後遺症もありません。……そういえば、彼らは貴女に直接会って礼を言いたいと言っているそうですよ」
「……そうですか」
「何があったのか話して下さい。貴女が勤務時間中に解決した事件ですから、報告する義務があります」

 真面目な政務官様が真面目な顔をして言う。何があったのか、大抵のことはあの悪党や被害にあった人々から既に話を聴いて分かっているはずだ。それでも私から話を聞かねばならないのは、勿論その義務が私にあるからであって、話を聞いて事の全体像を把握する責任がジャーファル様にあるからであるけれども、恐らく彼が最も聞きたいのは私の心情なのだろう。毒の知識があったはずの人間がわざわざ毒を口にした動機と、他の選択肢を選ばなかった理由。彼は分かっているのだ。仮に私とあの悪党が普通に戦闘をした場合、どちらに軍配があがるのかを。
 そんなことは、私だって分かっていた。

「どこから話せば良いのでしょうか」
「最初から──貴女が奴らに気がついたところから」

 はい、と頷いてから、冷たさが痛くて氷嚢を持った手を下ろした。ジャーファル様が何も言わないので、そのままベッドの上に氷嚢を投げ出し、すっかり冷え切ってしまった手に反対の手を重ねる。本当に、冷たい。熱の戻りそうにない手を見つめながら、口を開いた。

141017 
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