とうに捨てた命


 物音を立てないように起き上がる。そう遠くない位置に大きな樽が六つ並んでいて、杖はそのそばに転がっていた。拾い上げて、樽を見やる。
 先程の会話から察するに奴らは奴隷狩りと見て間違いなく、捕らわれた人々はこの樽の中だ。樽を壊しても良いが、樽の中がどうなっているか分からないし、おそらく人々は毒を盛られているのだろうから、自分で逃げることは困難なはずだ。そもそも意識があるのかも怪しい。樽を壊せば大きな音をたててしまう。そうすれば、すぐに男達が駆けつけてくるだろう。樽の中の人々を自由にするよりも、男達を拘束するほうが先だろうか。
 しかし、暗い樽の中で怯えている人がいると分かっていて後回しにするのも気が引けた。あまり考え込んでいる暇もない。いつだって迅速な判断と行動が成功に導き、少しの迷いや遅れが失敗に繋がる。
 いつの間にか杖を握る手が強ばっていたことに気づいて、少しだけ力を緩めた。力んではいけない。外から男達の声が聞こえていることを確かめて、その話し声にかき消されるよう願いながらぼそぼそと呟いた。

「アスファル・スィン」

 風が空を斬る音。木製の樽がぱっくりと割れる。

「アスファル・ナスィーム」

 中から積み重なって落ちるように出てきた人々は、ふわりと柔らかな風に包まれて音もなく床に倒れ込んだ。一つの樽に押し込められるだけ押し込められていたらしい。
 若い男には手足に枷がはめられているが、女子供はそうではなく、何人かを除いては縛られてすらいなかった。余程毒の効果を信じ切っていたようである。確かに殆どの者はぐったりとしていたけれども、毒が抜けてきたのか動けそうな者もいた。私を見上げる目は期待と恐怖がない交ぜの複雑な色をしている。
 ──それを見つめ返す私は、一体どんな顔をしていたのだろうか。
 背後に焦ったようなどよめきと足音が聞こえた。気づかれたらしいけれども、まさか私が動けるとは思っていなかっただろうから、相当動揺しているに違いない。
 もう静かにしている必要はなかった。

「もし動ける方がいらっしゃるなら、隙を見て逃げて下さい。道は私が確保します」

 言い終わるのとほぼ同時に、あのリーダー格の男が怒鳴った。

「テメェ何してやがる……いや、それより……どうして動ける……!?」
「毒を入れ忘れたんじゃないでしょうか」
「嘘だ! 俺は、俺はちゃんと入れた……!」

 私がつけてきたあの男は信じられないと喚いた。大の男でも二日は動けなくなるような量だったのだと、何度も繰り返す。至極どうでも良いことだ。私はリーダー格の男だけを見据えて淡々と告げた。

「取引しませんか」
「……取引だと? 一体何の」
「自分で言うのもなんですが、私、言い値で売れると思うんです。毒が効かない魔法使い、勿論シンドリア八人将と懇意だと謳っても良いでしょう」
「何が言いたい」
「さらってきた人々を解放しなさい」
「ハッ…テメェと引き換えにってか? ああ?」
「そうすれば、貴方達がシンドリアで奴隷狩りをしたことが明るみに出ないようにしてあげます」
「ほう? だがなぁ、考えてもみろや。テメェと、テメェの後ろの連中全部を連れていけりゃあそれが一番安全で一番儲けがある。だからその取引には応じられねえなあ」
「成る程、それでは交渉は決裂ということですね」

 不愉快な笑みで、そうだと頷くその顔を蹴り飛ばしてやれたならどんなにすっきりするだろう。昔を思い出させられるような、どこまでも不快な笑みだった。
 馬鹿な連中だ、と胸のうちの黒いどろどろが吐き捨てる。
 端から取引なぞ口八丁ではあったけれども、大人しく呑んでくれればそれが一番穏便であったのに。勿論私にとってではなく、彼らにとっての話である。

「残念です。──アスファル・アーシファ!」

 杖を掲げたその先に暴風が吹き荒れる。荷馬車は半壊し、男達は吹き飛んだ。壁にぶつかって呻く連中が顔に怯えと焦りをありありと浮かべたのを、私は冷めた気持ちで見ていた。
 袋小路の入り口は私の背後、捕らわれた人々の背後。これで──。

「残念なのはどちらでしょうねえ」

 もう片は付いたと思った束の間、背後から声がかけられた。間延びした男の声。瞬時に、この声の主が首謀者であると理解する。目の前の男達は雇われ者だったのだ。
 挟み込まれればどうしたって分が悪い。退路を断たれてしまっては人々を逃がすことも出来ない。馬鹿なのは少しでも油断した私の方だったのである。自分の間抜けさを呪いたいけれども、それは後回しにするべきだ、そうすぐに切り替えられただけマシだと自分に言い聞かせ、半身で声の主を振り返った。
 長身痩躯のその男は、薄ら寒い笑みを浮かべていた。身につけているものは豪奢と言わないまでもそれなりに値の張りそうな品ばかりで、男の羽振りの良さが窺える。

「まあ確かにね、街を見物して戻ってみればこんなことになっていて、私も残念といえば残念です。でもねえ、貴女のほうが、もぉっと残念でしょうねえ」

 ねっとりとした話し方が耳について気分が悪い。目つきを鋭くさせれば、おお怖い、と大仰に肩を竦めた。

「…思ってもいないことを。貴方が首謀者ですね、今すぐ人々を解放しなさい」
「嫌ですよお。なぜ貴女にそれを指図されなくてはならないんです?」
「……では、取引を」
「ほう、取引。どのような?」
「私は毒が効きません。珍しい魔法使いです。私と引き換えに、」
「なるほど、つまり貴女一人を得る代わりに、他の奴らは見逃せというんですね」
「その通りです」
「確かに貴女は言い値で売れるでしょう。魔法使い、毒が効かない丈夫さ。若い女で見た目も悪くないし、シンドリアから連れてきたといえば価値も跳ね上がる。だけどその取引には、応じたくないですねえ」
「なっ……」
「私、賭事が好きな性分でして。賭けだというなら、応じても良いですよ」

 にたり。不愉快な笑みを浮かべて、男は提案した。

「貴女がこちらが出す毒全てに堪えきれるなら、貴女の要求を呑みましょう」
「……」
「おやァ、どうしました? 貴女に有利な条件ですよねえ。毒が効かないなんて言っても、やはり限界はあると?」
「……ええ、ありますね。世界のありとあらゆる毒を盛られたら流石に死にますよ」
「まあ、安心してください。大した持ち合わせがありませんから。では、賭けに乗ってくれるということで?」
「私が賭けに勝てば、必ず人々を解放してくれるというのなら」
「勿論。ただし、私が勝てば、こちらの好きなようにしますがねえ」

 不本意ながら、大抵の毒ではものともしない自負はある。ただ、大した持ち合わせがないという言葉が真実か分からないどころか、濃度や量次第では死ぬ可能性は大いにある。耐性のない毒には当然堪えられないし、私にも限界量はあるのだ。この口約束を相手が果たす確証もどこにもない。むしろ、この賭け自体が賭けである。男は、ただ面白がっているように見えた。
 ──まあ、仮に、賭けに負けても。
 私が死ぬだけだ。荷馬車も樽も私が破壊してしまったから、奴らは予定通りに出発することは出来ない。少なくとも私が城に戻らなければ、一通りの捜索はされるだろうし、そうなれば誰かが気づいてくれるはずだ。マスルールは鼻が利く。ここに来てからというもの、匂いが染み付かないように注意を払うことを怠っていたから、きっと辿って来れる。
 私は静かに首肯した。男は満足げに笑っている。

140911
- ナノ -