うすい足音


 私の気分が良かろうが悪かろうが、シンドリアの空は今日も清々しいほど青く晴れ渡っている。それは当たり前のことであって、私の機嫌などが天気に影響するはずもないことは分かり切っているのに、空の青さがたまに腹立たしく思えるのは何故なのだろう。所謂八つ当たりだ。空に感情があるのなら、理不尽だと臍を曲げるに違いない。
 ここに来てから晴れやかな気持ちだったことなどおそらく一度も無いが、それに輪をかけて近頃の私の気分はずっしりと重く、しかし、そんな気持ちのありようすら我が儘で贅沢に思えて気持ち悪かった。
 ジャーファル様との一件がその根底にあることは自覚しているけれども、だからといって気分が良くなるわけでもない。どろどろとした感情を抱えて青空の下を歩くのはひどくちぐはぐな気がしたし、惨めさを際立たせるようにも思った。
 それでも私は今、シンドリアの青空の下を、シャルルカン様というこれまた太陽のように明るい人と並んで歩いている。市街地の見回りが今日の私に与えられた仕事だからだ。
 シンドリアのように平和な国でも、大なり小なりいざこざはあるらしい。国民同士で起きていることもあれば、他国から善良な商人を装って入国した悪党の仕業であることもある。おそらくは世界で一番平和なこの小国にさえ完璧な平和がないとするならば、況してや世界の平和などあるはずもない。
 悲観的な思考から抜け出せないまま、私達は街の中心地に足を踏み入れた。八人将の人気は絶大なもので、そこかしこからシャルルカン様の名前を呼ぶ声がする。彼は笑いながら手を振って応えた。王直属の部下が国民からこうも支持されているというのは、この国の平和さや民の信頼をそのまま現しているのだろう。
 ああ、やっぱり、眩しい。
 目を細めると、シャルルカン様が振り向いた。

「どうした?」
「いえ、…少し眩しくて」
「あー、陽もかなり昇ってきたもんな」

 そういう意味ではなかったけれども、訂正する必要も無いのでそうですねと頷いた。これ以上余計な気を回させるわけにはいかない。 先日のジャーファル様との一件を気にかけてか、時折私の顔色を窺うようにしていることには気づいていた。
 しかし、それとは別にどこかそわそわとしているような気もする。

「…シャルルカン様こそ、どうかなさいましたか」
「どうもしねーけど……つーか、エルハームさん」
「はい」
「なんでまだ敬語なんだよ…! ピスティが敬語はナシでって言っただろ!?」
「それはそうですが……」

 まさか今更それを蒸し返されるとは思ってもみなかったので口ごもると、がっしりとシャルルカン様の指が肩に食い込んだ。

「立場とか身分とかそういう言い訳はもう通用しねーからな! あとな、敬語取ったところで利点なんかねえって思ってそうだけど、俺には利点がある!」
「はあ」
「マスルールに哀れんだ目で見られなくなるし、ピスティに『エルさんから嫌われてるんじゃない?』ってからかわれずにすむし、あの魔法オタクに『さり気なく避けられてるのに気づいてない』とか馬鹿にされなくなるんだよ!!」
「………つまり今は哀れまれてからかわれて馬鹿にされているのですね」
「一方的に親しげにしてる勘違い男だとか散々言ってくるんだよ…!」

 悄気たかと思いきや、「だから頼む!」と肩を揺さぶってくる。いつもいつも賑やかな人だ。道の真ん中で立ち止まっているものだから、通りすがりの人々が不思議そうな顔や怪訝な顔で避けて歩いていく。かと思えば道の脇には小さな人集りが出来ていて、私達のやり取りを見物しているようだった。
 中には子供もいるようで、舌足らずな甲高い声が「おかあさん! シャルルカンさまがね、マスルールさまのこいびとをくどいてる!」と叫ぶのが聞こえる。確かに口説かれていると言えなくもないのかもしれないけれども、そういう意味ではないし、そもそも私はマスルールの恋人ではない。
 母親が間違いを正してくれると良いなあと考えている間にも、シャルルカン様は肩を揺さぶって砕けた口調にしてくれと言い募ってくるので、頭を抱えたくなった。返答によっては、あらぬ噂が広まってしまいそうである。……いや、もう既に手遅れなのかもしれないけれども。

「シャルルカン、そろそろ肩も耳も痛いよ」
「それはエルハームさんが──あ? 今なんて」
「肩も耳も痛い、って」

 目を丸くして動きを止めた彼の手を外し、小さく肩を竦める。

「気が済んだかな」
「お、おう……」
「……変な顔してるけどどうしたの」
「いや……、俺、嫌われてるわけじゃなかったんだなって……」
「え?」
「ちょっと気にしてたから……ちょっと…安心したっつーか……」

 そう言うとシャルルカンは、頭を抱えて力が抜けたようにしゃがみこんだ。意外と繊細な人だったらしい。
 それに面食らって思わず人集りを見やると、たくさんの好奇心いっぱいの顔が目を輝かせて見守っていた。「お嬢さん、そこは優しく言葉をかけて!」「いや、抱きしめて!」「それよりもキスを!」と口々に助言をくれるものの、何やら大変な勘違いが起きていることは明白であった。
 短い溜め息を吐き出してシャルルカンと向かい合ってしゃがみ込む。見物人達が息を飲むけれども、彼ら彼女らが期待しているような展開にするつもりはさらさらないのでお生憎様だ。

「嫌いとか、そういうつもりはなかったんだ。自分本位で考え過ぎてたね、ごめん」
「いや、俺のほうこそ……」

 シャルルカンががしがしと頭をかくと、銀の髪がさらさら揺れて微かにお香のような香りが鼻を擽る。この間マスルールが言っていたシャルルカン臭とはこれのことだろうか。
 気がつくと、痺れを切らしたらしい見物人達が詰めかけてきて、シャルルカンの肩を叩いたり声を掛けたりと忽ち賑やかになった。この街に出て人と関わると、目まぐるしくて暗い思考をしている間もない。それだけ良い街ということなのだろう。何せ、国民と権力者の距離がこんなにも近い。
 ふと、つんとした嫌な匂いが鼻をついた。シャルルカンの匂いとは明らかに違う。近い。人集りの中からだ。
 咄嗟に私は息を潜め、気配を隠し、匂いを辿った。向こうは移動している。それならばと足音を殺して追いかけた。意識せずとも自然にそうなるのは、これまでの経験があるからと言うほかない。
 人の合間を縫うように人集りから出ると、一人の男が目に付いた。やけに周りを気にしている風な歩き方は勿論怪しいけれども、それだけではない。匂いはあの男からしている。
 自分が杖を持っていることを確認してから、男のあとを追う。あの男は善良な市民でも観光客でもない。それは直感だった。しかし、根拠もある。
 この匂いは麻痺性の猛毒の匂い。善良な一市民が漂わせるような匂いではないのである。

140908
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