どうかわたしを許さないで


 少しの沈黙のあと、それを破ったのはジャーファル様のほうだった。

「貴女は、本当に死ぬためにシンドリアに来たのですか?」

 話はまだ終わりではなかったようで、淡々と質問が続けられる。私は彼ほど淡々とした口調を作れないまま、平静を取り繕って答えた。

「はい。それだけが目的です」
「主の為に生きて戻ろうとは?」
「いいえ、そんなことは望まれておりませんから。私には七海の覇王を殺すことなど不可能です。あの方は、私が暗殺を成功させるとは露ほどもお考えになっていないでしょう」
「なぜそう断言出来るのです? 貴女を可愛がって下さった方という話ではありませんでしたか」
「それ故ですよ。あの方は私の実力をご存知でした。私がどのような死を望んでいるかも、ご存知でした。それに……、仮に、私がシンドバッド王を殺したとして、その後どのような報復を受けることになるか……。考えるだけでも恐ろしいことです。あの方だって、それくらいよくお分かりだと思います」

 勿論貴方だってお分かりのはずでしょう、とは言わずにおいた。その辺りは彼もよく分かった上で、それでも敢えて訊いているのだろう。それくらいは察しがつく。ただ、質問のひとつひとつが前後の質問とは無関係に脈絡なく投げかけられるので、意図が読めない。読ませないためにわざとそうしているのかもしれないと気づくまでに、更に二 三に質問に答えた。
 ジャーファル様が一体どんな答えを期待してここに来たのかは分からないけれども、おそらく私は期待通りの答えなど何一つ返せていないだろう。嘘はついていなくとも、だからといって洗いざらい話しているわけでもない。その二つには大きな差はないように思えた。それでもなお中途半端に答え続ける私は、つまるところ不誠実に違いなかった。
 なけなしの誠実さで真っ直ぐに視線を合わせてみても、彼が私の答えをどう受け取りどう考えているのかはやはり分からない。こちらに向けられた暗い色をした双眸は、上手に胸の内を隠していた。しかし、声の調子や言葉の区切り方から察するに、そろそろこの問答も終いだろう。黙って次の問いを待てば、ジャーファル様はこれまでよりもゆっくりとした口調で問うた。

「貴女は……シンドバット王のことを、どう思っているのですか」
「…………どう、というと」
「その通りの意味ですよ。貴女の感情が今ひとつ見えてこないものですから」

 そういう彼こそ感情が見えないと思ったけれども、そんなことを言うような場面でないことくらいはわかっている。どう思っているか。それは単純であるくせに、難しい問いだった。

「……私にもよく分からないというのが、正直なところです。ただ……」
「ただ?」
「今も昔も、大きくて温かくて、眩しいひとには違いありません………いえ、今は昔よりもずっと眩しくて、ずっとずっと遠いですが」

 シンドバットの存在が、私の生きる支えであり目的であり終着点であったのだ。それはきっと確かだろう。いつかの彼の言葉が、今の私を形作っている。だから私は、彼に感謝の気持ちこそ抱えきれぬ程あれど、憎しみや殺意なんてものは微塵もなかった。そんな感情を抱く理由など、端からあるはずもないのだ。
 幼い頃からいつだって、シンドバットは、私にとって大きく眩しいひとだった。きっとルフの輝きのせいでもあったに違い無いけれども、たとえ私にルフが見えなかったとしても、彼はやはり眩しいひとであるだろうと思う。彼の存在そのものが、“大きく”て“眩しい”のである。それでも幼い頃は、彼を遠くに感じることはなかった。シンドバットは私のすぐそばにいた。遠いと感じ始めたのは、言うまでもなく彼が村を出たときだ。そして、パルテビアの王宮に連行されたときその遠さを思い知り、今、確信してしまった。彼はもう私には手の届かない存在なのだと。どんなに近くに見えようとも、それは見かけの話にすぎない。彼は紛れもない王であり伝説であって、私は下民であり暗殺者なのである。
 膝の上で拳を握り締めると、また掌に爪が食い込んだ。

「いくらシンドバット王が私のことを義妹と言って下さろうと、私はそれを受け入れることは出来ません。それはあまりにも烏滸がましいことです。私はシンドバット王のことを何も知らないに等しいというのに、身の程も弁えず、知ったようなことを抜かすことは、決して許されません」

 じっと暗い色の双眸を見据える。そこに私はどう映っているのだろう。全て戯言と思われているのなら、それはそれで構わない。虚偽を咎に罰せられるというのであれば──死罪であれば尚更──私にとっては本望というやつであろう。
 しかし目の前の彼は、幾度かの瞬きと短い溜め息の後に、全く予期していなかった言葉を放った。

「どうしますか、これから」
「…………え?」
「いつまでもこの部屋に籠もっているわけにもいかないでしょう。それに、王は構わないとおっしゃるかもしれませんが、王宮内に住み続けるのであればやはり何かしらの仕事はして頂かないと」
「…………なぜ、急に……」
「…確信したのです」

 答えたジャーファル様は、不思議とどこか吹っ切れたような顔をしていた。

「貴女はシンを殺せない」
「……何を今更おっしゃるのです、ずっとそう申し上げているじゃありませんか」
「ええ、分かっています。ですが、そういう意味ではないのですよ。殺意の有無も、シンと対等に渡り合えるような実力の有無も関係ありません────仮に貴女がシンを上回る力を持った人間で、容赦なくシンに襲いかかったとしても、それでも殺すことは出来ないと確信したのです」

 そう確信してしまえば、警戒するのもただ無駄な気力を使うだけであるとジャーファル様は言った。常に気を張っているというのがどれだけ疲れることかは、私にも分かる話ではある。しかし、それにしたって腑には落ちない。

「本当に宜しいのですか。簡単に警戒を解いてしまって」
「警戒は解いても、まだ貴女を信用したわけではありませんからね」
「……なるほど」

 要するに、彼が信用したのは自分自身なのだろう。私にはシンドバットを殺せない、ゆえに警戒するまでもない。そう自らが下した判断を信じたのだ。
 先程のどうしますかという問いかけが、私耳の奥でこだまする。どうするもないだろう。私には選択の余地などない。そもそも不信な人物にさせる仕事など、王宮内にあるとも思えなかった。私がジャーファルの立場ならば、重要な文書を扱うこともあるはずだから、不信な者を文官にはさせない。武器を持たせることになるから武官にするのも危険だし、かといって侍女は、王宮内に詳しくなってしまうどころか毒を盛る機会などを与えてしまうから宜しくない。やはり、王宮から追い出すか処罰するかが良いという結論に至ってしまうわけである。

「……私に出来る仕事がありますでしょうか」

 ──私が死を望んでここへ来たのなら、死を与えないことが最も大きな罰となる。そういう考えのもとにジャーファル様がこれからの話を投げかけたのなら、彼はこの優しげな笑みの裏に全く逆の顔も持っているに違いない。
 彼が自ら言った通り、私を信用していないのは分かり切っている。双眸の奥に何を思っているのかは相変わらず知れないし、ただの一度も、私の名を口にしないのだから。

140427 
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