おめおめと世界に縋り付く


 泣いたところで現状が変わるわけでもないことを、私はよく知っていた。泣こうが喚こうが自分で行動しない限り何も変わりはしないのだ。そして、行動してみても、それでもどうにもならないことが存在することもまた私はよく知っている。
 嗚呼。愚かな私は、一体何がしたいのだろう。
 腕に力を込めて、私を抱き込むシンドバッドの体を押した。

「申し訳ありません、取り乱してしまいました。もう、大丈夫ですから、どうか……どうか、お引き取りください」
「お前はまたそう…!」

 なんでだよ、と声を荒げるシンドバッドは、王というよりもあの頃の少年に近かった。彼は私を抱き込む腕に更に力を込める。ぎりぎりと痛いくらいだった。

「エル…、こんな時まで、意地を張らないでくれよ……」

 意地とは、なんだ。
 私はそんなものを張っているつもりなどこれっぽっちも無かった。これまでの人生において、意地を張ったことなどきっと無かっただろうとも思う。それだけの意志の強さがあるのなら、今の私はいないはずだ。あんな奴らの言いなりになって人を殺すことなど、しなかったはずだ。私に意地なんてものがあったなら──やんぬるかな。
 何もかも、投げ出してしまいたい。どうしたいのかも、どうしたらいいかも分からないのなら、全て捨て去ってしまいたい。そんな衝動を、私はこれ以上無いほど強く感じた。パルテビアを遠く離れた今、シンドバッドの目を盗むことさえできれば、きっと自殺が出来る。武器は無くとも私には毒の知識があるのだから──。
 そう思い至ったとき、突然シンドバッドが私を放した。あまりにも突然のことで、一瞬呆ける。はっとして距離を取ろうとしたときにはもう遅く、シンドバッドの両手が私の頬を包んでいた。昔とは違うごつごつと男らしい手なのに、あの手と同じ手だと分かってしまうのは何故なのだろう。温度だろうか。それとも触れる手つきだろうか。何かが、あの頃のままだった。
 シンドバッドは私に真っ直ぐ前を向かせた。存外近い距離で目が合う。こうして真っ向から見ていたら、強い光を宿したこの目に吸い込まれてしまうのではないかという馬鹿げた考えが浮かんで、とっさに目線を下げた。それでもシンドバッドは真っ直ぐに私を見続けている。痛いほどの視線をひしひしと肌で感じた。

「エル」
「…………な、んですか」
「未来が考えられないなら、俺も一緒に考える。お前に自分が視えないなら、視えるようになるまで俺がそばでお前を視ているよ」
「は……」
「だから、ちゃんと“こっち”を見てほしい」

 無理だ。出来ない。私には、眩しすぎるから。
 そう思うのに、その光を見たいとも思った。彼の目に宿る強く真っ直ぐな光は、暗闇に飲み込まれた私を照らしだしてくれるかもしれない。それは漠然とした期待でありながら、どこか確信めいたものがあった。だからこそ、今はそれに縋ってはならないような気もした。一度縋ってしまったら、私はきっとずっとしがみつこうとしてしまう。

「……っ」

 歯を食いしばる。しかし、自分がそこまで強い人間でもないことを、私はやはりよく知っていた。この暗闇の中に一人立ち尽くしていることなど、これ以上は出来そうもない。そこに差し伸べられた手をはねのけるほどの意地を、私は持ち合わせていなかった。
 吸い寄せられるようにゆっくり目を上げて、彼の双眸と合わせる。シンドバッドが、泣きそうな顔で笑った。かと思えばくしゃりと顔を歪めるから、泣いているのか笑っているのか分からない。シンドバッドは私の頬を掌で包み込んだまま、額を寄せた。こつんと小さな音をたてて額がくっつくと、彼は目を閉じて、噛み締めるようにゆっくりとした口調で「ありがとう」と呟いた。
 おかしい、どう考えてもそれは私が言うべき台詞のはずである。お礼を言うのは私の方なのだ。そう伝えようとしたけれど、喉の奥が引っ付いてうまく言葉が出てこない。首を振るだけで精一杯で何も言わない私を、シンドバッドは再びきつく抱き締めた。

***

 何も見えない暗闇に私はいた。きっとこれは夢である。いつの間にか眠っていたのだ。そう思いながら手を顔の前に翳してみるけれども、濃い闇に支配されたこの空間では朧気な輪郭ですら確認出来ない。本当に手を顔の前に翳しているのかさえも定かではなかった。
 ──ひょっとしたら、私はここに存在さえしていないのかもしれない。
 考えると恐ろしくなって、必死に両手両足を動かしてみたけれど、やはり見ることは出来ない。目の前には、ただ深い黒が広がるばかりである。嗚呼。どうして良いか分からずに俯いたとき、後ろからふわりと風が吹き抜けたような気がした。振り向くと、遠くに小さな光が見えた。風はそちらから吹いてくる。私はその光に向かって夢中で駆けだした。上も下も分からない暗闇、しかし私が下であると認識している方からは、私が駆けるのに合わせてぱしゃりぱしゃりと水の跳ねる音がする。水溜まりの中を駆けているにしては、冷たいも熱いも温度を感じない。それどころか、水に触れている感覚すらも無かった。まるで、私に実体など無いかのようだ。夢であると分かっているのにひどく恐ろしく、私は早く光のそばに行って自分の存在を確かめたい一心で駆け抜けた。
 小さく見えていた光は次第に大きくなり、辺りの闇も少しずつ白んでくる。自分の手の輪郭がぼんやりと見えるようになったあたりで、水音が消えた。かわりに、裸足で石の床を歩くときのようなぺたぺたという音が聞こえる。これは私の足音だ。私は確かに存在し、裸足で暗闇を駆けているのだ。そう安堵したが、まだ自分の姿を目視できない。私は光に向かってひたすら足を動かし続けた。
 光が近づく。辺りが明るくなってくる。そこで私はようやく足を止め、自分の手を見て、悲鳴をあげた。
 私の両手は真っ赤だった。手だけではない。自分の足も、振り返って見えた足跡も、おどろおどろしい程に真っ赤だった。赤というには少し黒いこの色を私は知っている。ヒトの血の色だ。嗚呼、私がここまで駆け抜けて来た道は、血溜まりだったのだ───。

「エル!」

 ハッとして目を開けた。けれど、窓から差し込んでくる朝日が眩しくてすぐ目を細めた。

「ひどくうなされていると思ったら悲鳴をあげるから驚いたぞ……大丈夫か?」

 じっとりと嫌な汗をかいて、髪の毛が肌に貼りついている。それを、シンドバッドが指でそっと払ってくれた。
 ……シンドバッドが、払ってくれた?

「……え?」

 ゆっくり瞼を持ち上げると、動いたら触れてしまいそうなほど近くに心配そうなシンドバッドの顔があり、逞しい腕は背中に回されている。私が抱き締められた格好で、ベッドの上にいるらしかった。

「シン! 本当にどうしようもないなアンタは!!」

 状況を理解できないうちにジャーファル様とマスルールが部屋に飛び込んで来て、私からシンドバッドを引っ剥たがす。マスルールが私を庇うように抱え、ジャーファル様が床に転がされたシンドバッドを金票に繋がる赤い紐で締め付けた。大層ご立腹のようであったが、私は寝起きで頭が回らないというのも相俟って状況がいまひとつ飲み込めない。説明を求めてマスルールを見上げた。

140407 
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