いつまでたっても暗闇


 ああ、今日は少し疲れた。
 広いベッドに体を投げ出して、ぼんやりと天井を眺める。ピスティ様との会話は正直なところそれだけで気疲れしてしまうようなものだったし、街を歩き人々に声をかけられるのも慣れない私には疲れることだった。けれども、この胸の奥がむずむずする感覚は、きっと、“楽しい”というものだ。
 いつぶりだったろう、人々のあんなに幸せそうな笑顔に触れるのは。村を離れてからというもの、私に笑顔を向けてくれるのは皇女様──セレンディーネ様くらいのもので、専ら嫌悪や憎悪に満ちた表情を向けられて生きてきた。だから、この街は、この国は、今の私には眩しすぎるともいえる。あのまばゆさは、かつて毎日のように見ていた太陽のような笑顔によく似ているのだと、今頃になって気づく。なんてことはない。その笑顔の持ち主がこの国の王である。彼が作った国なのだから、似もするのだろう。
 いつしかとっぷりと暮れ落ちた空が窓の向こうに見えている。窓から入り込んでくる夜風が、さらさらと私の髪を揺らした。夜も蒸し暑いシンドリアにしては珍しいひんやりとした風だ。その冷たさが肌に心地良い。目を閉じていると、ノックも無しに扉が開く音がした。随分と無遠慮だが、マスルールならば近頃よくあることである。だからそのまま目を閉じていた。
 ──カツン。
 聞こえたのは固い足音だった。マスルールのものではない。
 弾かれたように目を開けて起き上がり、ベッドを跳び降りた。自分の立場も忘れ、武器も無いのに咄嗟に身構えてしまうのは、これまでの生活でいやでも染み着いてしまった条件反射だ。しかし、それも一瞬のことで、その人物の姿をみとめて体の力を抜いた。何の用でやってきたのかは分からないが、訪問者はシンドバッドだったのだ。

「すまん、驚かせたか」
「いえ……。あの、急にいらして、どうなさったんですか」
「特にどうというわけでもないんだが……理由が無ければいけないなら、そうだな、お前の顔が見たくなったんだ」

 彼は私の前にまでやってくると、手を伸ばして指で髪を梳いて微笑む。ピスティ様との会話を思い出して、一瞬息を忘れた。──違う。そう、違う。ピスティ様の思っているようなものでは無いのだと、心の中で繰り返す。だから、シンドバッドが私の両耳の薄桃をじっと見ていたことには気がつかなかった。

「今日はどうだった、楽しかった?」

 シンドバッドはまたぽんと頭を一撫でして、ベッドに腰掛ける。そして、手で隣を示した。ここへ座れということらしい。仕方なしに隣に腰を下ろせば、シンドバッドは満足そうに笑った。

「……楽しかった、ですよ。人々は幸せそうで、眩しい笑顔に溢れていて………、この国は、本当に素敵な国だと思いました」
「はは、そう言ってもらえると嬉しいな」
「皆、良い方々です。本当に」

 その言葉に嘘はなかった。本当に、良い人ばかりだと思うのだ。しかし、だからこそ、私は自分が死んでしまえばいいと思う。与えられる優しさに流されて、甘えて、直視しなければならないことから目を背けたままのうのうと生きている自分が、どうしようもない存在に思えた。
 再びシンドバッドに会えた、もうそれだけで良い。早く終わらせてしまわなければ、自分のことがもっと分からなくなる。辛うじて保ってきたはずの自分を見失ってしまう。シンドバッドに殺されることが、たった一つの道標だったのだ。それを無くして、私はそこから何処へ向かえばいい。分からない。分からないから、怖い。
 ──ああ、そうか。私は、“怖い”のか。突然、その単純な言葉がすとんと胸に落ちてきた。だからといって目の前が明るくなるわけでもないが、一つだけ答えを見つけたような気がした。
 黙り込んだ私を、シンドバッドが覗き込む。存外その距離が近いことに驚いて、少しだけ身をひいた。

「エル?」
「……すみません。なんでもありませんので──」

 言い終わる前に、ぐっと肩を抱き寄せられる。首筋にシンドバッドの髪の毛があたってくすぐったいけれども、それよりも、耳を掠める吐息のほうが気になった。

「王、何を、」
「頼ってくれ」
「え…?」
「そんな──迷子みたいな顔で強がられたって、心配になるだけだろう」
「迷子だなんて」
「なあエルハーム、俺はこんな形でもお前にまた会えて本当に良かったと思っている」

 シンドバッドが頭をあげ、真っ直ぐに私を見据えた。その瞳に気圧されて逃げ出したくなっても、私には逃げ場がない。

「だから、いくら殺してくれと言われてもそれだけは絶対にしてやれない。わざわざ手放せるはず、ないんだよ」

 これ以上この目を見ていたら絆される。目を逸らそうとすれば、頬に添えられたシンドバッドの手がそれを阻んだ。その温かさになぜだか涙が出そうになるのを歯を食いしばって堪えると、手が後頭部に回されて、彼の胸に押しつけられる。豪奢な装飾品がごつごつと痛い。涙が止まらないのは、きっとそのせいなのだ。そうに違いない。
 ぎゅうぎゅうと痛いくらいに抱き締めるシンドバッドの腕も、小さく震えていた。もしかしたら泣いているのかもしれない。そんな考えがよぎったが、確かめる術は無かった。

「エル、頼むから、もっと甘えてくれ。頼ってくれ。──生きたいと、言ってくれ」

 シンドバッドの懇願が鼓膜を揺らす。けれど、言えない。言えるはずがない。言ってしまったら、これまでの私はどうなる。これからの私はどうなる。分からない。怖い。何もかも分からないから、何もかもが怖い。
 彼の腕の中で首を横に振る。 ごめんなさい、そんな言葉しか出てこなかった。 彼が聞きたいのは謝罪ではないのだと分かっていても、私の口からは他の言葉が出てこない。ごめんなさい、ごめんなさい。それだけを繰り返す。何を謝っているのかも分からずに、ただただ繰り返した。

「シンドバッド王、私は、私には──自分が生きている未来が、考えられないのです。先なんて何一つ見えない、それどころか、今の自分さえ見えないのです」

 誰だってそうなのかもしれない。何が待ち受けているか分からない未来へ、歩を進めていく。しかし、私には怖くて怖くて仕方がないのだ。 シンドバッドに再会した時点で終わるはずだったのに、そこから先の暗闇にまだ道が続いているなんて。それを歩いて行かなければならないなんて。 道なんてものは、その先にはあるはずが無かったのに。
 前が見えなければ歩けない。少なくとも、足元だけでも見えていなければ、一歩だって踏み出せやしない。なぜなら、その道が本当に真っ直ぐ前に続いているなどという確証はどこにもないからだ。暗闇の中に踏み出せば、何もない暗闇に落ちていくかもしれない。進めもしない戻れもしない、自分さえ見えない闇の中で、私は立ち止まっている。

140404 
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