煙の色さえきれいに見えた


 今日はマスルールが非番であるから、シンドリアの街を案内してもらうことになっている。空は相変わらずの晴天で、街を歩くには申し分ない。お金は持っていないけれども、あくまで街を案内してもらうだけのつもりなのでそのことは特に心配はしていなかった。部屋まで迎えに来てくれるというマスルールを待ちながら、ぼんやりと窓の外を眺める。この部屋の窓からは街は見えないが、城のすぐそばの森と その向こうに広がる青い海はよく見えた。マスルールは頻繁にあの森で寝起きしているらしい。森は良い。緑に囲まれていると心が落ち着く。城から見えるこの森にも一度行ってみたいものだが、頼んだら連れて行ってもらえるだろうか。そんなことを考えていると、ドアがノックされる。マスルールだろうなと思って開けるとそこにはマスルールだけでなく、にこにこと上機嫌なシンドバッドがいた。

「おはようエルハーム!」
「おはようございます、シンドバッド王。……今日はどうされたのですか」
「いや、なに、お前がマスルールと街へ出掛けると聞いてな。これを」

 そう言って差し出してきた麻袋がジャラリと音をたてたのに気づき、思わず半歩ほど下がった。

「それは……頂けません」
「そう言うだろうと思っていたよ」

 シンドバッドは苦笑混じりに言った。もっと強引に押しつけられるのではと思っていたので、案外すんなりと退いてくれたことにほっと胸をなで下ろす。しかし、安堵も束の間、シンドバッドはその袋をマスルールに渡した。

「エルが気に入ったものがあれば、これで買ってやってくれ」
「わかりました」
「……えっ!?」

 これは俺がマスルールにお遣いを頼んだだけだ、と笑って言うシンドバッドは悪戯が成功した子供のようで、私には言い返すことが出来ない。言葉に詰まって口を噤むと、シンドバッドは私の髪をくしゃくしゃにかき混ぜる。

「そう不服そうな顔をしないでくれよ」

 そして、楽しんで来いと頭をぽんぽんと撫でる。まるで子供をあやしつけるかのようで、少しだけ腹がたった。

***

 初めて見るシンドリアの街は、眩しかった。バザールで賑わう時間帯は過ぎているけれども、街中が人々の笑顔と活気に溢れている。ヤムライハ様が言っていたように皆 様々な過去を背負っているのだろうに、それを感じさせない明るい表情や朗らかな声が今の彼らの幸せを物語っていた。夢の都と噂されるのも頷けよう。
 私がきょろきょろと辺りを見回しているからか、それとも八人将が一人マスルールと一緒だからか、やけに視線がこちらに向けられて落ち着かない。これまでは隠密行動を求められるばかりであったから、どうも居心地が悪いのだ。人々の話を気をつけて聞いてみれば、「マスルール様だ」「マスルール様が見たこともない女性を連れている」「王宮の方?」「どういう関係だろう」などという声が聞こえた。マスルールに案内を頼んだのはまずかったかという思いが過ぎるが、他に頼れるような人もいないのだから仕方ない。なるべく素知らぬふりをしていようと思ったのだが、人々がそうはさせてくれなかった。

「マスルール様! おひとついかがです?」
「マスルール様! ぜひウチの品も見て行って下さい!」

 声をかけられたマスルールは律儀に品々を見に行くので、私もこそこそとついて行った。シンドリアの特産品なのだろうか、見たことのない物が並んでいる。興味深くて見つめていれば、マスルールが尋ねた。

「……食うか?」
「あっそうじゃないの、ちょっと珍しくて見ていただけだから……」
「おや、そちらさんシンドリアは初めてかい? これはアバレヤリイカの燻製さ」
「ああ、シンドリア名物の」
「そうだよ。せっかくだから食べてごらんなさいな。マスルール様のお連れ様だから今回は特別にタダでいいよ! ほら! マスルール様も一本どうぞ!」

 気の良い主人はそう言うなりぐいと押し付けるようにアバレヤリイカの燻製を差し出してきた。断りきれず、ありがとうございますと言って受け取ると、主人はにこにこと笑った。
 いつの間にかマスルールも受け取っていて、もう食べ始めている。どうやら主人が私の反応を待っているようだったので、一口かじってみた。

「……美味しい」
「そうだろうそうだろう! 旅人さんにも大人気でね、自慢の品なのさ!」

 そう言って笑う主人は、私の目には本当に眩しく映った。この人はきっと自分の仕事に誇りを持っているのだろう。それがただただ眩しい。ぼんやりしていると隣から「御馳走様でした」と声が聞こえて、見れば、マスルールは燻製を食べ終わったようだった。慌てて私も燻製をかじる。「あらあら、そんなに慌てて喉に詰まらせないようにね」と、やりとりを見ていたらしい隣の店の奥さんが笑った。

「急がなくていいぞ。食べながらでも、街は見れる」
「マスルール様の言うとおりだよ。ゆっくり味わってお食べ!」
「…あの、これ本当にタダで頂いて良いんですか」
「いいよ。だからってわけじゃないが、また来ておくれ。今度はまけてあげられないがね!」

 呵々と笑う主人が誰かに似ている気がして、でも誰だかわからなかった。故郷の漁師の男たちかもしれないし、別の誰かかもしれない。一体誰に似ているというのだろう。しばし考えてみるけれども、答えが出ない。なぜだか胸の奥がむず痒くなって、それがどうしてなのかも分からないまま、主人にもう一度礼をして店の前を離れた。
 そして、燻製をかじりながら街を歩く。どこを見ても人々の幸せそうな顔がある。それは心温まる光景であるはずなのに、なぜだか無性に泣きたくなった。表情には出していないつもりだったが、何かを感じたのかマスルールが振り向いて私の顔を覗き込む。どうかしたのか。言葉は無しに、目がそう訊ねていた。

「なんでもないよ」
「…それならいい」

 やはりとでも言うべきか、マスルールは深く追及することはしなかった。ひとつ頷いて、また前を向く。心なしか歩調が遅くなり、ぽつりぽつりと あれが国営商館だとかこの道をまっすぐ行けば港に行けるのだとか、そういうことを教えてくれた。
 途中の店に見たことのない果物のようなものが並んでいたのであれは何かと訊ねると、シンドリア特産のパパゴレッヤだと言われた。

「エルも食べたことある」
「うそ、無い」
「三日前の夕餉………。シンさんに『シンドリア名物はちゃんと教えてやれ』って言われたから、俺説明したはず」
「……………そうだっけ」

140325 
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