彼女はガラス細工のように脆かった


side マスルール


「マスルール。起きて」

 服を引かれる感覚と共にそんな声を聞いた気がして目を覚ました。
 顔を上げると正面にはエルが立っていて、ヤムライハさんはいつの間にかいなくなっている。俺にはあまり関係のない話題であるし興味もほとんど湧かない内容だったので途中で聞くのをやめたのだが、どうやらその話ももう終わったようだ。がしがし頭をかきながら欠伸をしてれば、エルは隣に腰掛けた。彼女特有の匂いが鼻を掠める。

「座ったまま寝るなんて器用なことだけれど、どうせベッドの上にいるのだから遠慮しないで横になって寝れば良かったのに」
「…………次からそうする」
「次があるならね」

 エルは、初めて会話をしたときに比べて幾分空気が柔らかくなった。自分が他人の感情の機微に鋭いほうではないと自覚しているが、それでも、雰囲気が変わればなんとなく分かる。口数も少し増えた。ただ、最初から今まで決して自分から人に触れようとしないことは変わっていない。それに気づいたのはシンさんに言われてからだが、今だって俺を起こすのに肩を叩くでも揺さぶるでもなく服を引っ張る方法を選んだあたり、エル自身が接触を避けているということで間違いないのだろう。理由は分からないでもないが、どうしてそこまで気にするのかは分からない。
 少し前、エルは俺を変わっていると言ったが、エルのほうがよほど変わっていると思う。暗殺者だというくせに、そういう空気がない。侵入してきたときも全く殺気を感じなかった。それは、殺されに来たというそのよく分からない目的故なのかもしれないが、そもそもその目的からして変わっている。そのくせ今の態度だって変わっている。人を気遣うような素振りをよく見せるし、基本的には控えめでいる。それに、俺より、ジャーファルさんよりも年上のはずなのに、なぜかあまりそういう感じがしない。立て続けに泣き顔を見たからだろうか。とにかく変な奴という印象だった。 しかもシンさんがエルのことには凄く拘る。これもやはり誰かが言っていたのを聞いて確かにそうかもしれないと思っただけだが、あの七海の女たらしともいえるシンさんが、一人の女に拘ったことはまずない。というより、誰か一人に固執することが珍しい。だからエルのことは怪しい云々ではなく単純に気になる──と、やはり誰かが話していた。ピスティか先輩だったような気がするが、まあそれはどうでもいいことだ。
 不意に「ヤムライハ様が」とエルが口を開いたので、首を回して隣を見た。

「敬語をやめにしようと。本当、この国の人は変わっているよね」

 その表情がずっと見てきた無表情でも胡散臭い笑顔でもなくて、自然な苦笑いだったから、流石に少し驚いた。

「でも……ここがシンドバッドの国だからと思うと、なんだか分かる気がする。どこか、似ているよ」

 今までに見たことがない表情で、急にエルが年上らしく見えた。なんとなく悔しさようなものを感じて、いつかシンさんがしていたように手を伸ばして髪をくしゃくしゃにかき混ぜてみると、エルは目を丸くして振り返る。「何してるの」「別に」指をすり抜ける細い髪の感覚が面白い。続けていると不意にその手をエルが掴んだ。

「こら」

 少し痛い、とエルは続けて言うが、初めて伸ばされた掌に驚かされて、言われるまでもなく手を止めた。急にどうしたのだろう。思いつくのは、今日のことである。シンさんが「女同士ならエルも話しやすいだろうから」と頼むのは聞いていたが、ここまで効果があるものなのか。女同士の会話がそんなに凄いなんて知らなかった。
 エルも少しして自分のしたことに気づいたようで、慌てて手を離す。思わずその手を掴んだ。

「気にするな」

 それには答えがなく、痛い、とだけ返ってきた。力を入れすぎたのかと力を緩めれば、細い手はするりと抜けていく。

「ありがとう」

 何に対してのありがとうなのかはよくわからなかったが、黙って頷いた。窓から風が入ってきて、手櫛で整えている最中の髪を揺らした。海の風の匂いとエルの匂いが混ざる。
 あの日俺が侵入者に気づいたのも、匂いがしたからだった。嗅ぎ慣れない匂い。かといって毒のようでもなく、後から単に異国の匂いだったのだと分かった。エルはシンドリアまで殆どの距離を魔法で移動し、結界の手前から貿易で立ち寄る商船に忍び込んで入国したらしい。そして到着したその日のうちに王宮に赴いたというから、匂いが染み付いたままだったのだろう。
 しかし今エルからする匂いは、あの日のものとは違っていた。海の匂いと陽の匂いに混じって、森のような匂いとほのかに甘い匂いがする。果物の甘さというよりは、花のそれに似ていた。風が運んでくる匂いが染み付いたのかもしれないが、あの日エルを取り押さえたときも微かに同じような匂いがした気がするから、きっとエル自身の匂いなのだろう。不思議と気持ちが落ち着くその匂いは、嫌いではなかった。
 そもそも最初からエルのことは憎くも好ましくもなく、有り体に言ってしまえばどうでも良かったというのがしっくりくる。あのシンさんが特別に想う人というのは珍しくもあったが、それだけだ。今はどうだろう──少なくとも、嫌いではない。もし殺せと命じられることがあれば、自分は間違いなくエルを殺すだろう。しかし、きっと何かを思わずにはいられないだろうと思う。
 自分がそう思うことが不思議ではあるが、思えば、端から警戒心などなかった。直接的な攻撃はしてこないし、殺気も反抗する意志も見えない。しかも、自分は聞いたのだ。エルを取り押さえたところにシンさん達が来たあのとき、小さな小さな声でエルは呟いていた。

 ──ああ、シン。

 その一言に込められた感情を読み解くことなど自分には出来なかったが、それはあたかも迷子がようやく親を見つけたときのようで、思わず首を傾げた。変な奴だと。残念ながらその声はエル自身が魔法で起こした風の音に掻き消され、他の人には届かなかったらしい。この言葉を俺以外の誰かも聞いていたならば、今と違った状況があっただろうが、どうしようもないことである。ただ、考えることが好きではない俺は、この言葉を聞いた瞬間エルを警戒する必要はないと思ったのだ。シンさんのことを王と知っていて“シン”と呼ぶのは、シンさんがそれを認めた人だけだから。

140324 
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