劣等感のかたまりである


 ヤムライハ様は、私のような人間のことでなぜここまで真剣になれるのだろう。
 シンドリアの海のように青く澄んだ瞳が、気迫さえ感じられる鋭さを以て真っ直ぐに私を射抜いている。杖を握るヤムライハ様の手は少し震えているけれども、それは怯えなどによるものではなく、真剣になるあまり力を込めすぎているからだった。

「会って間もない私がこんなことを言うのは失礼ですが、エルハームさんは……“現在”から逃げていますよね」

 返す言葉などなかった。これからどうするのか、死にたいのか、生きたいのか。それらの答えを出すことを先延ばしにして、考えることを放棄したのはつい先程のことである。そうでなくても私は、これまでもそうして生きてきたという自覚があった。過去を振り返り、過去にしがみつき、未来を思い、未来に怯え、いつか訪れる死期に期待して、現在からは目を背けて。そうして、見ない振りをして状況に流されているほうが楽だったのだ。

「お願いです。もう逃げないで。私に出来ることがあるなら手伝います、だから、今をどうするか、一緒に考えましょう?」
「…………なぜそこまでして下さるのです」

 自分で思った以上に温度のない声が出た。抑揚も感情も感じられない、淡々としたこの声。いつからか自然とそんな声ばかりが出るようになって、皇女様が顔をしかめていたことを思い出す。今は、自分が顔をしかめている。否、実際は表情には出ていないだろう。ただ、いいようのない虚しさを感じた。
 ヤムライハ様は私の声に一瞬身じろぎした。眉を下げて、きゅっと唇を引き結ぶ。違う、そんな顔をさせたいのではなかった。そう思うけれども、言葉にはならない。ヤムライハ様の手はただでさえ白いのに、力を込めすぎてますます白くなっていた。
 シンドバッド王の命なのでしょう、そう呟くと、彼女の肩が大きく揺れた。

「……その通りです。ここに来た本当の理由は、王様に頼まれたから……」

 ごめんなさい。
 彼女はそううなだれて、しかしすぐに、でも! と叫ぶように言った。

「あなたと話がしてみたかったのも本当です! それに、ここへ来てから話したことは、王様の命令じゃありません。私の、本心です」

 真っ直ぐに私を見る瞳はとても綺麗で、私には眩しく感じられた。

「私は魔導士です。エルハームさんが魔法使いだからという理由で国に利用されていたのなら、私は、同じ魔法使いとしてあなたを放っておけません。……あなたの力になりたいんです」

 ルフがピィピィと鳴く。きっと彼女は嘘をついていない。どうやらこの国には、いっそ変わり者といえるほどの優しさを持った人間が多いのだ。

「この国は、変わり者が多いのですね」
「……え?」
「王の古い知人だからとか、同じ魔法使いだからとか…………そんな理由で、仮にも暗殺者に親切にするなんて……どうかしてます。正直、本当は何もかも私を油断させるための罠なのではないかと疑ってしまうくらいには、理解できません」
「そんなこと……!」
「ないのでしょうね。少なくとも、ヤムライハ様が嘘をついているとは思いません」

 途端に彼女は表情を明るくして、私の手を取った。

「考えましょう、今のこと、これからのこと! エルハームさんならきっとどんな生き方も出来ます! 魔力も多いし、魔法の研究をしたら物凄いことができるかも!」
「生き方、ですか…」

 これからどう生きるか。私の人生はシンドバッドと再会した時点で終わるつもりだったのだから、今更これからのことなど考えられなかった。彼に殺されようと決めていて、殺してくれと乞うたのに、それでも尚生きていることは、許されるのだろうか。──いや、そもそもそれは誰が許すのだろう。誰がそれを決めるのだろう。
 ヤムライハ様は私の考えていることを見透かしたように、手を強く握り締めて言う。

「この国には、悲しい過去を抱えている国民も多くいます。後ろ暗い過去を背負っている人も少なくありません。それでも皆、今を前向きに生きて……笑って暮らしています。だからエルハームさんも大丈夫です。この国でなら、絶対に」

 そこには、シンドバッドとシンドリアへの絶対的な信頼と誇りがあった。ちょっとやそっとのことでは決して揺らぎはしないのだろう。
 純粋に凄いと思った。そんな風に思えるヤムライハ様も、そう思われるシンドバッドも。同時に、やはり今の私にとってシンドバッドは果てしなく遠い存在だと痛感する。泥と血に汚れた私の手では到底触れられない。いくら兄妹のように育ったといえど、血の繋がりなどない私達は所詮赤の他人なのだ。私達の人生がその中のある期間において偶然噛み合ったことがあった、ただそれだけのことなのである。偉大な王と僅かでも噛み合ったその日々は、おそらく私の人生の中で最も輝かしい時間だったのだろう。
 あの頃のことを思い出して、ふと、ヤムライハ様に尋ねてみたくなった。

「ヤムライハ様は、魔法使いとしてやっていく素質が私にあるとお思いなのですか?」
「もちろんです! エルハームさんは、きっと良い魔法使いになれますよ!」

 ──きっと良い魔法使いになれると思うよ。
 鼓膜を揺らしたソプラノに、記憶の中のやわらかな声が重なる。あのどこか儚げな不思議な人も、確かにそう言って微笑んでいた。

「……ありがとう、ございます」

 噛み締めるように告げれば、ヤムライハ様が今日一番の笑顔を見せた。もう一度ぎゅっと私の手を握り直す。

「もう少しお話したいけれど、今日はそろそろ失礼します。また来ますね!」

 そして立ち上がりマスルールにも声をかけようとして、「…あら」。小さく呟いておかしそうに笑った。首を動かしてマスルールを見やると、彼は器用にもベッドの上で座ったまま寝息をたてていた。どうりで衣擦れの音一つしなかったわけである。

「…私が起こしておきますね」
「そういえば、二人は仲が良いのですか?」
「……はい?」
「私が部屋に入る前の会話が、少し聞こえてしまって」
「…………ええと」

 逡巡したのち、ありのままを伝えることにした。聞かれてしまったのならば仕方がない。ここで嘘をついでまで隠す意味もないように思った。

「最初は敬語でお話していたんですが、彼が、胡散臭いからやめてくれと。王の直属部下に対して不敬かとも思いますが、立場上断るにも断れませんし」
「………それなら、私にも一つだけ言わせて下さい」
「なんでしょう」
「敬語、余所余所しいのでやめにしませんか?」

 ぽかんとする私と対照的に、彼女は口角を上げる。それは暗に『今の理屈ならあなたは断れないでしょう?』と言っているようにも見えて、存外彼女はずるい人であると思う。あくまでも国の守護神と侵入者という関係であるはずの私達に、余所余所しさを取り除く必要があるとも思えなかったが、マスルールのことがある以上その理屈は聞き入れてもらえまい。別の断る口実を見つけられない私には、もはや選択肢は一つしかないのである。
 国を守る立場の者がこうも率先して侵入者に親しげに接するなど、この国は一体どうなっているのだろう。

140320 
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