例えば世界が君を手離そうとも


side シンドバッド


 エルハームのいる部屋を後にして、急に肩の力が抜けるのを感じた。どうやら自分で思っていた以上に気を張っていたらしい。
 まだ本心から納得したわけではないにしろ、エルハームが首を縦に振ったことは喜ばしいことだった。昔から、エルハームは聡明だった。だからこそ、彼女が一時の感情で死を望んでいるとも思えず、本心から望んでいるのだろうと嫌でも気づかされる。しかし、いくら本人の望みでも、実の家族同然の人間を殺せる程割り切った思考回路など持ち合わせていなかった。一度でも良い、また逢いたいと願った人だ。彼女のそばにいた時間と同じくらい、否、それ以上の時間を離れ離れで過ごしてきたが、エルハームは自分にとって大切な人に変わりなかった。そこには利害の勘定など存在しない。彼女をこの手で殺すくらいなら、恨まれてでも生かしたい。それを誰に我が儘と言われようと構わなかった。彼女の殺してくれという願いもまた、彼女の我が儘であるのだから。

「ドラコーン。……エルの話は本当だろうか」
「嘘をついているようには思えなかったが……、人が悪いな、あれだけ言っておきながら疑っているのか」
「違う、そうじゃない。ただ、本当なら…俺にも責任はあると思ってな」

 俺が国に目を付けられなければ。俺があいつを置いていかなければ。守ってやれていれば。
 エルハームの話を聞いて思ったのはそれだった。やはりあの時、連れて行けば良かったのだ。目を瞑れば、自分は行けないと言った幼いエルハームを思い出す。頑なな口調、真っ直ぐな眼差し。それらに反して時折不安げに揺らめいた瞳は、何年が経とうと忘れられない。
 あの日、彼女がした判断はきっと間違いではなかった。しかしその結果として彼女は、望まぬはずの暗澹たる道を歩むことになってしまったのである。それならば、無理にでもどこか別の場所に連れて行ったほうが良かったのではないだろうか。どうせ望まぬ生き方なら、少しでも穏やかな生き方のほうが。

「らしくもないことを言う」

 詮無いことを考える頭にドラコーンの声が響く。それがやけに殊勝であることに驚いて、顔をあげた。

「悔いたところで、今更どうにもならん。ならば、今し方彼女の前でそう宣言してきたように、生きたいと思わせることを考えるしかないだろう。王が迷っていてはどうしようもないぞ」
「…………すまない。その通りだな」

 パルテビアに利用されていた魔導士。皇女に可愛がられた暗殺者。エルハームについて簡潔に表すならばさしずめそんなところだが、それについてドラコーンにも思うところが少なからずあるのだろう。パルテビアの皇女と聞けば俺にも思い当たる節はある。ドラコーンの双眸は、ここではないどこか遠くを見ているように錯覚させた。かと思えば、突然視線をこちらに送ってくる。

「エルハームの立場は何とするつもりだ?」
「食客にするつもりでいるよ」
「あの様子では受け入れるとは思えんが」
「そうかもしれんが、それくらいにしておいた方があいつの身を守りやすいだろう」

 食客ともあれば、ジャーファルもそう敵意を向けてはいられまい。
 ジャーファルは優秀な部下であり、信頼もしているが、エルハームの件に関してはもっとも用心しなければならないと考えている。単に、ジャーファルがなかなか警戒心を解かないだろうということだけではない。エルハームが、死ぬためにわざとジャーファルの警戒心を利用するかもしれない可能性もあるのだ。それだけはなんとしてでも避けねばならない。

「エルが戻らず、俺の死の知らせも届かなければ、パルテビアはエルが返り討ちに遭って死んだと思うのだろうな」
「恐らくはそうだろう。……しかし、もしパルテビアがエルハームの生を知り、取り戻そうとしてきた場合はどうする」
「どうするもこうするもないさ。せっかく向こうから俺の元へ飛び込んできてくれたんだ。そうやすやすと手放せるはずがない」

 死なせないし、奪わせない。
 強く拳を握り締める。

「……昔はもっと明るくて笑顔の似合う娘だったんだ、エルハームは」

 再会したエルハームはにこりともしなかった。ここに来てから彼女が見せたのは、無表情か涙かのみである。また笑えるようになったなら──心から笑顔を浮かべられるようになったなら──彼女は自らの生を選んでくれるようになるだろうか。そんなことを考える自分が今どのような表情をしているのかなど到底知るはずも無いが、それを隣で見ていたドラコーンがぽつりと呟いた。

「王よ──いや、シンドバッド。お主は彼女に相当入れ込んでいると見える」
「……? あいつは俺にとって妹のような──」
「本当にか?」

 何が言いたいのだ。
 眉根に皺を寄せて見やれば、ドラコーンは「……野暮であったな」と首を振る。

「それだけには見えなかったのだ」

 一言だけ放ってあとは何も言わなかったが、ドラコーンが言わんとするところはわかった。
 エルは妹のような存在だ。ずっとそう思ってきたし、これからもそうだろうと思っていた。いや、ずっと一緒にいて妹として接してきたならば、きっとそのままだったろう。しかし、今ある現実は、十年以上の空白をまざまざと見せつけられている。
 再会した彼女は、外見に面影こそあれど、大きく変わった。それは成長に伴う変化でもあるし、そうでない変化も多分にある。大きな空白の後に見たその姿は、一瞬別人かと思うほどだ。
 ──自分はエルハームに対して妹以上の感情を持っているのだろうか。
 その線引きは曖昧で、しかしエルハームが大切な存在であることにはかわりない。死なせないし、奪わせない。この二つが揺らぐことは有り得ないのだから、何も今はっきりと決めつけてしまわずとも良いのではないかと思えた。確かに、自分達には血の繋がりなどない。家族だ妹だというのはあくまでも感情の問題、事実は他人である。とはいえ、ずっと“妹”と思ってきたのだ、今更変えられるものでもない。それ以上の感情を抱いていてるというのがドラコーンの考えすぎであるならば、彼女は今も俺にとって“妹”であるし、これからも変わらないだろう。
 ……ドラコーンの考えすぎでないならば、そのときは──。

140306 
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