ただの死にぞこない


 シンドバッドとドラコーン様が部屋を出て行き、私はマスルールさんと再び向かい合っていた。てっきり二人が出て行くときに彼も出て行くものと思っていたから、正直少し戸惑いがある。彼は特に何を言うでもなく、するでもなく、ただただ立っていた。この部屋の──あるいは私の──見張り番の任があるとはいえ、部屋の中にいる必要もないだろうに。何か私に用があってのことなのか、何も考えていないのか、それらを推し量れる程まではまだマスルールさんという人を知らない。それでも彼が饒舌には程遠いことだけは知っているから、この沈黙もさほど気まずくはなかった。
 どれだけ沈黙が続いただろうか。私からは話すようなことも無いので黙っていた。マスルールさんもしばらくそうして黙ったままじいっと私の顔を見ていたが、やがて唐突に問うた。

「あれで良かったんすか。シンさんはきっと何があってもあんたを殺さないし、俺らもあんたを殺せない」
「……初めからあの人はそう決めていたみたいだから、ここで私が何を言っても覆せやしなかったと思います」

 それに、何があっても殺さないということはないだろうと思った。例えば私がこの国で重罪をはたらいたとする。そうなれば、彼は私を裁かないわけにはいかないし、罪に応じた重刑を下さなければならなくない。彼が賢明な王である限り、私の罪を見逃すことはできないのだ。

「エルハーム…さんは、死にたいのか死にたくないのか、よく分からない人っすね」
「…………敬語、外して下さって構いませんよ」
「…でも俺より年上っすから」
「立場はマスルールさんのほうがずっと上でしょう?」
「……話逸らさないで下さい」

 案外と引き下がってくれないもので、鋭く見据えられては流石に居心地が悪い。観念して口を開こうにも、私自身にまだ戸惑いがあった。

「……分からなくなったんです」

 私は絆されてしまったのだろうか。
 私は、死ぬために来たはずだった。シンドバッドの力なら、私を殺すことなど簡単だろうと踏んで来たのである。その、はずだったのに。

「シンドバッドに会い、話をして。……それだけで、ここに来た目的が、果たされたような気さえしてきてしまって」

 ひょっとして私はただ、もう一度シンドバッドに会いたかっただけなのではないかと。
 そう思えてきてしまったのだ。
 再会したシンドバッドはもうあの頃のような少年ではないけれども、確かに彼だった。私が変わったように彼もまた変わったのだとしても、変わらないものもあるということに気づいてしまった。そして、そのことに安心する自分がいた。

「私の言動がちぐはぐに見えるなら、きっと、私のこのどっちつかずの感情が現れているのだと思います」
「あんたがこの国にいたいなら、そうすればいいんじゃないすか。シンさんはあんたが相当大事みたいだったから、きっと歓迎する」
「……身勝手にも程があると思いません?」
「さあ……俺はそういうの、よく分からないんで」

 相変わらず無表情のマスルールさんは淡々と言葉を紡ぐ。

「あんたがシンさんの……俺達の敵になるとは思えない。だから、いたいならいれば良いし、好きにすればいい。……と、俺は思う」

 特に言葉を選んでいるふうもなく、本当に思ったままを述べているらしかった。だからこそ、私はその言葉はするりと胸に届く。とどのつまり彼は私を敵と認識していないのだ。事実、私が全力で彼に刃向かったところで赤子の手を捻るように簡単に、瞬殺されてしまうだろう。彼にとっては相手にするまでもない。そもそも今の私の心の在りようでは、一兵卒にも苦戦するに違いなかった。
 根拠を問えば、やはり表情を変えずに一言「勘」とだけ答える。それは根拠というにはひどく曖昧であるはずなのに、なぜか納得してしまうのは、マスルールさんに一切の迷いが見られなかったからなのだろう。勘というよりも、むしろ確信に近いように見えた。

「……ありがとうございます、マスルールさん」
「礼を言うくらいなら、それ、やめてくれ」
「それ?」
「喋り方。胡散臭い」

 ここで初めて彼の感情の変化を見た気がして、どこか不機嫌そうな彼に気を取られ、言葉の意味の理解が少し遅れた。上手くやれているつもりでいたのだが、案外そうでも無かったようである。

「俺はシンドリアじゃそこそこ偉い。でもその中じゃあんまり偉くない。……だから、無理に改まったりしなくていいんで」

 マスルールさんなりの気遣いであるのか、単にあまりにも胡散臭い私に嫌気がさしたのかは測りかねた。しかし、なぜだか彼が私に歩み寄ろうとしてくれているように思えて、知らず知らず私は小さく頷いた。全く、ここへは殺されに来たはずの自分が今していることはどうにもちぐはぐで、自分でも何をしたいのか分からない。分からなければいけないと思うのに、考えることを放棄してしまいたくもある。なんて我が儘なのだろうか。

「……その言葉に甘えると、私、だいぶ礼を欠く態度になると思うのだけれど」
「俺は気にしない」

 頷いて、なにやら彼は彼自身で何かに納得したようだった。くるりと踵を返し、部屋の入口へ歩いていく。

「じゃあ、俺は部屋の外にいるんで。用があれば呼んで下さい」

 ありがとう。そう返して、彼だけ敬語というのがやけに気になって、彼の背中に言葉を続けた。

「私にも敬語はいらない」
「…………分かった。でもジャーファルさんが近くにいるときは、そうもいかないと思う」
「うん、分かってる。それは私も同じだろうから。マスルールさんの立場がまずくならない程度で良い」

 振り返った彼は少し不機嫌そうである。「マスルール」そう呼び直すと、軽く頷いて部屋を出て行った。よく分からない人だが、なぜだろう、嫌いではない。
 シンドバッドの私への接し方から、彼は私という人間との関わり方を決めたのだろうけれども、それにしたって随分と寛大だと思う。そして彼の言葉に甘える私は、本当に中途半端で曖昧で、身勝手だ。
 死にたいのか、生きたいのか。ここにいたいのか、いたくないのか。
 自分が何をしたいのか、まるで分からなかった。

140305 
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