いちにさんで魔法が解けた


 少しして私を離すと、シンドバッドはぽつぽつと迷宮のことを語り始めた。その語調にはだんだんと熱が籠もっていって、ああ、これが別人に見えた理由か、とぼんやり思った。彼は迷宮でぐんと成長して帰ってきたに違いない。
 迷宮へ行く後押しをしたのはエスラさんだと聞いて、私は安堵した。なんとなく、エスラさんは全部知っているような気がしていたけれど、本当にそうだったらしい。エスラさんは、シンドバッドを心から信じて待っていたのである。
 冒険譚を嬉々として語るシンドバッドはやっぱりいつものシンドバッドのように思えて、それにも安堵した。

「いつかその話で本を書いたらいいよ。シンドバッドの冒険書、って」

 なんとはなしに言ったこの言葉がいずれ現実になるのは、今はまだずっとずっと先のことである。
 ひとまず話に区切りがついたところで、二人でエスラさんの元に戻って並んで眠った。エスラさんは病のせいで随分とやつれてしまってはいるけれど、表情はとても安らかだった。
 翌日、エスラさんの墓を作った。村の人たちが手伝うと言ってくれたけれど、二人だけで作ることを選んだ。墓といっても粗末なものしか作れないし、金持ちがするような立派な葬儀は出来ない。それでも、私たちがエスラさんのためにしてあげられる最後のことには違いなかった。穴を掘っているとき頬を伝ったものが汗だったのか涙だったのかは、私にも分からない。

 エスラさんの埋葬が終わると、シンドバッドは旅に出ると言った。きっとそう言うだろうなと思っていたから、別段驚きはしなかった。昨日の話を聞きながら、薄々感づいていたことである。しかしそうはいっても、寂しいものは寂しいし、心配なものは心配で。言いたいことはたくさん思い浮かんだが、やっぱり喉の辺りで迷子になってしまって、何を言えば良いのか分からない。

「ちゃんと衣食は確保してね。水分は特に。それから、一番は、…死んじゃだめ」
「分かってる。死なないさ」

 シンドバッドはわしゃわしゃと私の髪をかき混ぜた。これももう最後になるのかもしれない。そう思ってしまうと切なくて、思わずその手をぎゅっと押さえつけた。
 珍しいな。そう言って笑う顔も、声も、見納めなのだろうか。じっと見つめれば、シンドバッドは少しだけ寂しそうな口調で言う。

「……ついて行くとか、帰ってこいとかは、言わないんだな」
「ついては行けないよ。私はシンみたいに強くないから、足手まといになる」
「俺が絶対守ると言ったら、ついて来る?」
「それでも行かない。私を守るくらいなら、自分を守ってって言うよ」
「帰ってこいは?」
「言ってほしいなら言うけど……。シンが帰ってくるつもりなら私が言わなくても帰ってくるだろうし、帰ってこないつもりなら言っても帰ってこないでしょ?」
「…はっきり言うなあエルは」
「だってシンは、私が何かを言ったからって、それで行動を変える人じゃないもの」

 そうだ、シンドバッドはそういう人なのだ。それくらい知っている。伊達に何年も一緒に過ごしてきたわけではないのだ。彼には信念がある。だから本当は、何も言わなくたって同じことなのだろうとさえ思う。

「でも、死んじゃだめ、は言うんだ」
「うん。それは一番大事なことだから。でもたぶん言わなくても死なないだろうなって思うよ」
「え、なんで」
「迷宮攻略までしちゃった人がそんなに簡単に死ぬとは思わない。それに、シンだから。きっと大丈夫!」

 ぐ、と胸元で握り拳をつくって見せる。それが空元気に見えたのか、シンドバッドは複雑そうに顔を歪めた。なにやら唸っていたけれど、何が言いたいのかさっぱりである。
 言葉にしてくれるのを大人しく待っていたが、どうやら諦めてしまったらしい。代わりに思い切り抱き締められて、「連れて行きたかった」と小さく小さく呟くのが聞こえた。その言葉に、やっぱりもう帰ってくるつもりはないのだろうかと寂しさが込み上げる。これではいけない。表面に出てしまわないように丁寧に胸の奥に押し込めた。

「……うん、エルは将来良い奥さんになるな!」
「うん? どうしたの急に」
「いや、なんとなくだよ」

 笑いながら、けれど名残惜しそうに私を離して、シンドバッドは表情を引き締める。いよいよ行くらしい。

「それじゃ」
「うん、」

 ──こういう時、なんて言うのだっけ。
 またねもさようならも何か違う気がして、他の見送りの言葉などひとつしか思いつかない。しかしこれは、帰ってこいと同義な気がする。まあそれでもいいか──そう思って、歩き始めた後ろ姿に手を振った。

「いってらっしゃい!」

 シンドバッドは笑いながら振り返る。

「それじゃ帰ってこいと同じようなものじゃないか! ──いってきます!」

 ──暗転。

 目を開けると、見知らぬ天井がそこにあった。随分と、長い夢を見ていたような気がする。遠い昔の、ひどく懐かしい夢だ。今の私はあの頃のように子供ではないし、純粋でもない。もう少しだけあのぬるま湯のような夢に沈んでいたくて目を閉じたが、すっかり醒めてしまった頭ではどうにも無理なようだった。
 再び目開けて、今度は上体を起こして部屋を見渡してみる。知らない部屋だ。夢で見た幼い頃住んでいた家でも、その少し後で連れて行かれて以来住み続けている部屋でもなくて、とても綺麗で上等な部屋。
 ……ああそうか、そうだった。
 私はようやく思い出す。ここはシンドリアの王宮の一室だ。私は死ねなかったのだ。

140222 
- ナノ -