ある男の独白


 エルハームが瀕死。
 突然飛び込んできた知らせは、いつも通りの昼下がりをたった一言だけで暗転させるに十分な威力を持っていた。まるで鈍器で頭を殴られたような、いや、鉛そのものを飲み込もうとしているかのような。俄には信じがたく、しかし、それが嘘でも夢でもないと分かっている。空を下から上へ裂いた雷を見たときに感じた胸騒ぎが現実になったのだと、妙に冷静に理解する自分がどこかにいた。
 足早にエルハームの部屋へ向かう道すがら、何故こんな事態が起きたのかを考える。あいつが死にたがっていたのを知っているだけに、思い浮かぶのは我ながら最低な憶測ばかりだ。瀕死など、そう簡単に陥る状態ではない。ましてやここはシンドリア。命を脅かすようなことなど起こり得ない──あってはならないはずなのだ。
 だとすれば。ひょっとして。
 ……考えたくもないことだ。エルハームの部屋に入ると、我が国が誇る優秀な魔導士達がベッドを取り囲むようにして立っていた。その黒い後ろ姿に阻まれて、ベッドに横たわっているだろうエルハームの姿は見えない。俺が入って来たことに気がついたジャーファルが静かに近寄って来るが、その表情は固く眉は真一文字にひそめられていて、彼女の容態が芳しくないことを伝えていた。

「何があったんだ」
「詳しいことはわかりません。ただ確かなのは、多量の毒に侵されていることです」
「……毒?」

 魔導士たちの邪魔にならないようエルハームの姿が見える位置まで移動し、ようやくその姿を見た。治癒魔法の淡い光に照らされているのは、ぞっとするほど蒼白な顔だった。瞼は固く閉じられている。微かに胸が上下しているのに気がつかなければ、とても生きているとは思えない。何故こんなことに。心臓がぎりぎりと音をたてて軋む。エルハームに生半可な毒は効かないのではなかったか。そもそも毒物に明るいこいつが、毒を盛られることも誤飲することも考えにくい。こうなること自体が、不自然なのである。
 暫くの間、動かないエルハームから目を逸らすことができずに立ち尽くした。

「……なあ。ジャーファル」
「なんですか」
「何があったにせよ、エルなら毒に気づいていただろう。それがどんな毒で、自分がどの程度まだなら耐えられるのかも……きっと分かるだろうな」
「……そうだと思いますが」

 脳裏を駆け巡る憶測を、誰かに否定してほしかった。しかし、それが出来るのは目を覚まさない彼女だけなのだ。きっとジャーファルは俺と同じことを考えているから、否定などできない。そうと分かっていて尚、否定してくれる何かを求めて口を開いた。
 誰だっていい、エルハームが自ら死のうとしたのではないと言ってくれ。
 先の報告でここまでエルハームを運んだのがマスルールだと聞いたのを思い出し、今度は窓辺に佇むマスルールに声をかける。一見普段とあまり変わらない表情が、それでも幾分暗く見えるのは単なる気のせいではない。

「何があったのか、知らないか」
「……すんません、俺はあの雷を見て行ってみただけなんで…。エルが倒れていた袋小路に行く途中でそこから逃げてきた子供を拾いましたけど、泣いて話を聞くどころじゃなかったです」
「そうか」
「先輩ならもう少し分かると思うんすけど」

 逃げて来た、とはどういうことだ。問う前にマスルールは黙りこんだ。何があったのかまでは知らないのだろう。どうやらシャルルカンからの報告を待つほかないらしかった。
 やがて、額に汗を浮かべた魔導士たちがこちらを見た。手を尽くした、これ以上出来ることはない。その言葉が事実であることは疑いようもないが、自然と歯痒さが沸き上がるのを抑えることはできなかった。それでもどうにか押し隠し、尽力してくれた魔導士たちを労う。彼らにとってエルハームは、突然運び込まれたどこの誰とも知らぬ者だ。それぞれ仕事や研究に励んでいたところを急に招集され、戸惑いもあったろうに、全力を尽くしてくれた彼らを王として誇りに思う。──しかし、エルハームの"兄"としては、どうしてもひどくもどかしい。
 ふと廊下からばたばたと忙しない足音が聞こえ、一人の若い武官が顔を覗かせた。「……ルト」ジャーファルが名を呼ぶと、ルトはぴしりと姿勢を正した。

「シャルルカン様から言付けを預かって参りました!」

 その内容は、こうだった。
 奴隷狩りと思しき男六人を拘束。捕らえられた人々は全員解放したが、毒により手足などに麻痺が認められる者が多数。
 エルハームは、恐らくこの悪党と対峙したのだ。そして、毒を。
 ぐるりと目の前が回転したような感覚だった。心臓がまた軋む。あろうことかシンドリアに奴隷狩りの侵入を許してしまったことも、その結果、大切な民やエルハームが傷ついたことも、全てが重い。
 ルトの問いかけには大丈夫だと答えた。わかっていた。自分自身がそう思いたいのだということは。

***

 シャルルカンから事の経緯を聞いた。腑に落ちないことは幾つもあって、そのうちの一つさえ解決しないまま三日が過ぎた。エルハームはまだ目を覚まさない。
 何度か様子を見に部屋を訪れたが、いつも同じように全く変わらない姿で眠っている。青白い頬に触れてみると、冷たかった。それは死の冷たさではないが、人の命が灯火であるなら、日に日にエルハームのそれは頼りなく弱々しくなっているのだろう。
 どうか目を開けてくれ。訊きたいことはたくさんある。今回のことも、そうでないことも、山のようにあるのだ。話したいこともたくさんあるし、見せたいものもある。たとえば俺の最低な憶測が正しくて、本当にエルハームが自ら死のうとしたのだとしても、俺はそれを許してやるつもりなどない。だから、頼むから、どうか。
 そう思っていたのに、漸く目を覚ましたエルハームに俺がしたことは、平手打ちだった。まだ生きてるの。あいつは一言目にそう言った。状況を飲み込めていないような顔で、エルハームはゆっくりと自分の頬に触れる。じわりと滲んだ涙が頬を伝う、その瞬間初めて我に返った自分に愕然とした。
 ジャーファルに促されて部屋に戻っても、手に残る感覚とエルハームの表情が消えない。しかしそれよりもあの一言のほうが、余程たちが悪くしつこく耳の奥でこだました。まだ生きてるの。どういう意味だ、それは。なあ、俺が目を覚まさないお前をどんな気持ちで見舞っていたと思う。お前が目を覚ましたと聞いてどんなに嬉しかったと。それでもお前は、まるで死にきれなかったことが悔しいとでもいうように呟くのか。それなら、そんなにも死にたかったならば。

「もう勝手にしろ」
「……それは、彼女への伝言ですか」
「ああ」
「…………分かりました、伝えておきます」

 ジャーファルは何か言いたげな目を向けて部屋を出ていった。
 ずるずると崩れ落ちるように椅子に座り、目を閉じる。荒れ狂う波のように押し寄せてくる感情の名が分からない。こんなことは、随分と久しぶりだった。
 ──本当は気づいている。独り善がりな苛立ちと、八つ当たりであることは。まるで子供だ。思い通りにならないことに駄々を捏ねる無力な子供と、何も変わらない。
 ショックだったのだ。そして悔しかった。どうしても気持ちが通わない。エルハームに生きていてほしい傍にいてほしいと思うのに、それはやはり自分の独り善がりでしかなく、あいつにとっては恐らくただの迷惑なのだろう。
 少しずつ冷えてきた頭で考えるが、何も纏まりそうになかった。

***

 部屋の扉がノックされる。
 入ってきたのは、ジャーファルと──エルハーム。

 そして、エルハームは真っ直ぐな目で言った。

「──勝手に、天命の限り、生きていきたいと思います」

 一瞬、全ての音が消えた気がした。呼吸も忘れ、何もかもが静止したように思えた。
 嗚呼。
 もう二度と、手離すものか。

150429 一周年企画@ソラワタリさん
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