となりあわせの呼吸


 シンドリアで好きな場所といってまず思い浮かべるのは森だけれども、次に思い浮かぶのはこの書庫である。王宮の端のほうにひっそりと存在するここはいつでも静かで、太陽に愛されるこの国では珍しく、昼間でも少し薄暗い。書物が日焼けしてしまわないようにそうなっているのだろう。私は、その静けさと薄暗さを気に入っていた。
 なにしろシンドリアという国は、何処もかしこも明るくて活気がある。国中くまなく探せばそうでないところもあるにはあるけれども、それはとても僅かだ。実に良い国だと思う反面、私には眩しすぎて、居づらい国だと思うことも少なくない。
 そんなときに足を運びたくなる場所こそ、この書庫なのだった。喧騒も届かず、人の目もほとんどない。 聞こえてくる音といえば、私の足音と呼吸と心音、そして、私が頁を捲る度に紙が擦れる音くらいだろう。ひやりと冷たい床の上に座り込んで、壁に背中を預けた姿勢で文字を追う。それがとても落ち着くのだ。
 今読んでいるのは、シンドバッドの自伝である。幼い頃、いつかそんなものを書けば良いといったような覚えがあるけれども、まさか本当に書いているとは思ってもいなかった。好奇心から読んでみると、その中身は随分と脚色されているらしい。適当に抜き取ったので中途半端な巻ではあるけれども、それにしても脈絡なく、八人将の面々が唐突に人間離れした様子で描かれている。本人に脚色する許可を得ているとも思えない。思わず苦笑したとき、不意に靴音が聞こえて私は手を止めた。
 この書庫に訪れるのは大抵魔導士達なのだけれども、この足音は魔導士達のそれとは違っている。私の勘違いでなければ、この足音の主は。

「……ああ、やっぱり」
「何がやっぱりなんだ?」
「足音。シンの足音みたいに聞こえると思って」
「……そんなに分かりやすいか?」
「別に、そういうわけではないけれど」

 シンドバッドはゆったりとした足取りでやって来ると、私の隣に腰を下ろした。私と同じように背中を壁に預け、顔をこちらに向ける。瞳がきらりと光ったように見えた。

「珍しいね、シンがここに来るなんて」
「エルがここにいると聞いて、会いに来たのさ」
「また仕事を放り出して?」
「それは言わないでくれ」

 苦い表情で笑ったシンドバッドは、やはり少年の頃の面影を残していた。私が覚えているシンドバッドは十代前半だから、比べてみればそりゃあ勿論老けたように見えてしまう。こればかりは仕方のないことだ。時間は彼にも私にも平等に降り注ぐ。私が子供でなくなったように、彼も子供ではなくなった、ただそれだけのことである。シンドバッドのほうだって、きっと私を見て似たようなことを思ったに違いないのだ。
 
「ところで、どうして床に座り込んでいるんだ?」

 シンドバッドは、わざとらしく話を逸らす。私はもとよりそれ以上仕事を放り出してきたことについてとやかく言うつもりは無かったので、大人しくシンドバッドの問いかけに答えた。

「こうしていると、なんだか落ち着くから。それに、この位置は一番ちょうど良い具合に陽が入るの」
「眩しすぎず暗すぎず、か?」
「そう。床は冷たくて気持ちが良いしね」

 薄暗く静かで、シンドリアらしからぬ空間だからだろうか。外の世界とは切り離されているようにさえ感じられる。まるで異なる時間が流れているかのような。目を閉じれば、そのまま眠りに落ちてしまいそうだと思った。
 しかし、シンドバッドは私に会いに来たのだと言っていたし、それがどういう意味であったにしろ、シンドバッドを放って一人勝手にうたた寝するわけにもいかない。今度は私から、シンドバッドに問いかけた。

「私が何を読んでいたかわかる?」
「……ヤムライハが書いた論文とかじゃないのか?」
「まあ、それも面白そうだけど……そうじゃなくて、これ。とっても愉快なお伽噺だった」

 ちらりと見せただけで、シンドバッドにはそれが自分の書いたものであることが分かったらしい。どこか気恥ずかしそうに首の裏を掻いた。

「一応実話なんだがな……」
「そう? 私の知っているジャーファルさんには角がないはずだけれど……。それとも私がまだ見たことがないだけで、実はクーフィーヤの下に隠れているのかな」
「案外そうかもしれないぞ」
「それなら、ジャーファルさんに直接訊いてみることにするね」
「それはやめてくれ!」

 本気で焦るシンドバッドが面白くて、思わずクスクスと笑いが零れた。焦るくらいならば、過剰な脚色などしなければ良いのに。更にいえば、仕事を放り出してジャーファルさんを怒らせるような真似をしなければ良いのだ。
 シンドバッドにそれを言うと、彼はばつが悪そうにした。元来部屋に籠っているのを好むようなひとではない。しかし、そう言って逃げていられないことも、本人はきちんと分かっているのだ。分かっているなら、私は何も言うべきではない。
 私は口をつぐみ、手元に目を戻した。

「どこから読んだ? 最初から?」
「ううん。この巻だけ」
「それなら、ぜひ一巻から読んでみてくれ。最初のほうには、エルのことも書いたんだ」
「……私も火を吹く? それとも鋭い鉤爪か何か生えているのかな」
「まさか。これでも最初の頃は、なかなか事実に忠実に書いていたんだぞ」
「……どうだろうね」
「疑り深い目だな……」

 拗ねるふりをして、シンドバッドが私を軽く小突いた。大袈裟に痛がって見せると、シンドバッドは小さく笑って私の頭を撫でる。もう幼い子供ではないのだから、と恥ずかしく思う半面、その手の温かさにほっとする自分もいるものだから、私はまるで子供のままような気がした。体ばかり大きくなって、中身はあの頃とさして変わってはいないのではないか──勿論、そんなことはないのだろうけれども。

「まあ、読んではみるよ」

 そう呟くと、シンドバッドは嬉しそうに笑った。

「いつかエルに読んでほしいと思いながら書いていたんだ。離れてしまってからの俺の冒険を、たとえ再会できなかったとしてもどうにかして知ってほしくて」

 私は言葉を返せなかった。シンドバッドの笑顔があまりにも少年染みていたからかもしれない。ただ、記憶にあるより幾分老けたように見えるその顔をじっと見つめていた。
 そのうちシンドバッドは、欠伸をひとつした。大きな口が開かれて、綺麗に並んだ白い歯が見える。ふと、昔お互いに凭れ合って昼寝をしたことがあったと思い出した。薄暗い書庫ではなかったけれども、よく晴れた昼下がりのことだったはずだ。
 シンドバッドの欠伸が移ったのか、私も出かかった欠伸をひとつ噛み殺した。隣で、柔らかく笑った気配がする。

「昼寝でもするか」

 こつんと頭と肩が触れた。「ああそうだ、読んだらぜひ感想を聞かせてくれ」シンドバッドの声が先程よりもずっと近いところから聞こえて、私は「気が向いたら」と答えて目を閉じた。

150719 / title by 幸福
一周年企画@海野さん
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