それは瞬きにも似た、


 それは突然だった。
 ジャーファルさんに届ける報告書を手に廊下を歩く私に、シンドバットが突っ込んで来たのである。不意をつかれ、しかも勢いよく飛びついてきた大の男を私が支えきれるはずもなく、そのまま後ろにひっくり返った。頭を床に叩きつけずに済んだのはシンドバットが手を回して庇ってくれたからであるけれども、そもそもシンドバットがこのような奇行にでなければ転びはしなかったと考えると礼の言葉などは引っ込んでしまった。

「何事なの、これは」
「ジャーファルから逃げているんだが、どうだ、一緒に逃げないか」

 なるほど、彼はまた仕事を放り出してジャーファルさんの怒りを買ったらしい。真面目な政務官は、今頃憤怒の形相で王宮を駆け回っているのだろう。最早見慣れたものではあるけれども、このままでは政務官が心労で身体を壊すのが先か、それとも王が制裁を食らって身体を一部欠損でもするのが先か。密かに王宮中が心配しているのも頷ける。
 私はひとつ溜息を吐き出して、シンドバットを見上げた。その表情は心なしか楽しげに見える。

「折角のお誘いだけれどお断りするよ」
「そうか、それは残念だ。お前ならどこまでも一緒に来てくれると思ったんだがな」
「心中は御免だもの」
「何っ!? 死ぬのか俺は!」
「またジャーファルさんを怒らせて、無事では済まないでしょうよ」

 冗談を言いながらもシンドバットを押しのけ、床に転がった杖を拾って立ち上がる。手に持っていた報告書は、先程シンドバットの体に潰されてすっかりくしゃくしゃになってしまっていた。嗚呼、なんてことをしてくれたんだ。広げれば読めないことはないのだけれども、これは政務官殿に兼ねてから依頼されていた浜辺の植物に関する調査報告書である。まさかこのしわくちゃの紙を提出するわけにもいかないだろう。ましてやシンドバットの逃亡でジャーファルさんは既にご立腹なのだ。火に油を注ぐような真似はしたくない。幸い予定より早く仕上がって、頼まれていた期日にはまだ少し余裕がある。大急ぎで書き直して、日を改めて提出することにしよう。間に合わないことはないはずだ、……睡眠時間を削りさえすれば。
 シンドバットはといえば、手元の報告書に諦めをつけた私を眺めながら、漸く立ち上がったところだった。随分と暢気な逃亡者である。

「シン、死にたくなければ逃げたほうが身のためだと思う」
「助けてはくれないのか」
「今の私はジャーファルさんの味方をしたい気分だから」

 追いかけるよ。
 そう告げると、先程までの緩慢な動作が一転、シンドバットは脱兎のごとく駆け出した。あまりの変わりように私は呆けてその後ろ姿を眺めていたけれども、すぐに杖を構えて幾つかの命令式を思い浮かべた。風魔法か、雷魔法か。
 ……いや。やめておこう。
 なぜだかふとそう思って、浮遊魔法の命令式に切り替え杖に乗った。シンドバットの後ろ姿は、既に見えなくなっている。

***

 昔、私達がまだ幼くて、あの小さな村に住んでいた頃。遊びといえば専らかけっこか隠れんぼで、私達は夢中であちこちを駆け回っていた。隠れんぼならば私も勝てたのだけれども、かけっこではいつも勝つのはシンドバットのほうだった。私はなかなか勝てず、駄々をこねたことさえある。
 もしも、私達が何もかも昔のままであったなら、今日もまた私は負けて地団駄を踏んでいたのかもしれない。しかし、あの頃とは様々なことが違う。今の私には勝機がある、はずだ。

「魔法を使うのは卑怯だぞ、エル!」
「普通に走ったところで追いつけるはずがないでしょう」

 卑怯だというのであれば、私が飛びにくいようわざと細い廊下や人通りの多い廊下を選んで逃げるシンドバットのほうが卑怯なのではないだろうか。通りすぎる役人達が大袈裟な程驚いて避けていく。時おり物陰や部屋に身を隠しながら逃げるシンドバットを一体どれだけ追いかけ続けているのだろう。外を見やれば、陽が随分と動いたような気がする。擦れ違う役人達のうち誰か一人くらい、シンドバットを捕まえてくれれば良いのに。流石に純粋なシンドリア国民である彼らには、偉大なる王に掴みかかる度胸はないようである。遂に文官の一人とぶつかりかけて、已む無く私は杖から飛び降りた。体力が尽きる前に追いつかなければ。
 苦い顔で走り出した私を振り返り、シンドバットはにやりと笑った。「これで公平だな!」「どこが公平なもんか!」怒鳴りながら駆けていく。これでは結局私もジャーファルさんに怒られてしまいそうだけれども、最早仕方あるまい。早くも差が開き始め、角を曲がったところでシンドバットの姿を見失った。何処かの部屋に入り込んだのだろう。しまったと思うももう遅い。呼吸を整えつつ、ルフの流れに目を凝らす。
 昔、私が隠れんぼで強かったのは、ルフが見えるお蔭だった。たとえ本人の姿が見えずとも、ルフのざわめきを追ってみれば良いのだ。
 目星をつけてドアを一つ開けてみる。羊皮紙の束が押し込まれた棚が幾つも並ぶ、少しカビ臭い部屋だ。あまり埃っぽくはないところを見ると、それなりに人の出入りはあるのだろう。不意に白いルフが視界の端を横切り、奥のほうへ消えていった。その後を追ってゆっくりと、なるべく静かに歩を進める。

「みーっけ」

 棚の後ろで縮こまった姿は、七海の覇王と呼ぶには余りに情けない。げ、と露骨に顔を歪めたシンドバットは、それでも俊敏な動きで私がいるのとは逆のほうから脱走を試みた。恐らく彼はまだ逃げられると思ったのだろうし、事実今の私ではその動きにはついていけなかっただろう。
 しかし、シンドバットに最早逃げ道はないのだった。私が開け放したままのドアから、気配を消し足音を殺して入ってきたジャーファルさんが、暗器を構えて立っているのだから。

**

「全く貴方という人は! これでもう何度目だとお思いですか!?」
「すまん……だが、ほら、時には息抜きも、な?」
「そう言って貴方は息抜きしすぎなんです!!」

 執務室に戻り説教を受けるシンドバットの体には、赤い紐がぐるぐると巻きついている。ジャーファルさんが居なければこの国は立ち行かないだろう。いや、ジャーファルさんが居るからこそ、王もここまで自由奔放に振る舞うのかもしれないけれども。
 ジャーファルさんに同情の目を向けていれば、それに気づいたのかジャーファルさんがこちらを振り返った。

「申し訳ありませんね、お騒がせして」
「いえ、私こそ王宮内を飛び回ってお騒がせしてしまいました。申し訳ないです」
「エルハームさんが謝ることではありませんよ。私が見込んだ通り、シンを追い込んでくれましたしね。……ところで、例の報告書は進んでいますか?」
「…………今日お渡しする予定だったのですが、その……ちょっと、不備がありましたので、書き直して明日以降お持ちします」

 正直にシンのせいなのだと言ってしまおうかとも思ったけれども、今日はやめておくことにした。ついでに、久し振りのかけっこが少し楽しかったことも、胸のうちにしまっておこうと思う。
 シンドバットをちらと見ると、まるで叱られたそばから次の悪戯を企む子供のような顔をしていた。なんとまあ。確信犯だったのかもしれない。

150510 / title by 夜途
一周年企画@水無月葵さん
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