かなしみのうず


 相変わらずシンドバッドが戻らないままさらに1ヶ月が過ぎ、シンドバッドがいなくなって実に2ヶ月が経った。
 エスラさんの病は悪くなる一方で、日に日に衰弱していた。必死に働いて薬代を稼ぐけれど、それだけではどうしようもなく、もう長くないことは誰が見ても明らかだった。村の人はみんな、せめて最期の瞬間だけでもシンドバッドが帰ってきてくれたらと思っている。迷宮に行ったとも知らずに、早く帰ってきてくれと願っている。無事を願うのは私も同じだったが、心のどこかで諦めていた。シンドバッドは確かに強い。しかし、屈強な戦士が何万と挑み帰ってこないような場所から、小さな漁村の少年が生きて帰ってくると純粋に信じられるほど、私は子供ではないのだ。
 ここ数日、エスラさんは意識もはっきりとしないことが増えてきた。食べ物も薬も満足に飲み込めない。もう時は今日か明日か。覚悟をしておけと大人たちに諭され、家に帰って泣いた。シンドバッドがいなくなってからは自分の家に帰ることもめっきり無くなったけれど、エスラさんの前で泣くわけにはいかない。 久々に帰った自分の家はひどく寂しく、いるだけで悲しくなった。
 今日か明日かと言われているときに、街まで仕事をしに行く気にはなれない。いざという時、間に合わなくなってしまう。今日は近場で薬草を採る事に決めて、籠を持って外に出た。この季節は打ち身に効く薬草が生えている。摘み取って籠に入れながら、シンによく使ったのはこれだったなあと思い出して泣きそうになった。ぐっと堪えると、そばでピィピィと鳥が鳴いた。私にしか見えない光る鳥は、今日もきらきらと眩しい。
 ──エスラさんの周りの鳥は、だんだんと弱々しく、少なくなっていった。それが何を意味するかなんて、状況から簡単に察しがつく。だけどそれだけで何も出来ないのなら、見えないほうがマシだと思った。

「ねえ、君たちはなんなのかな。どうして他の人には見えないのかな」

 答えなんか期待していないが、ぽろりと口をついて出た。あいにく、私以外に誰もいないこの場所では、ただ虚しく響くだけである。
 溜め息をつき籠の中に溜まった薬草を見て、まあこんなものかと籠を抱えなおした。今日はもう帰ろう。そして、エスラさんのそばにいよう。村のほうへ足を向けると、人影が駆けてくるのが見えた。村の誰かだ。そう思うのと同時に、嫌な予感がした。

「エルハーム! 早く! エスラさんが……!」

 最後まで聞いていられるはずもなく、必死で駆け出した。途中、籠の中から薬草がいくらか落ちた気がしたけれど構うものか。今はこんなものちっとも大事じゃない。無我夢中で走って、エスラさんの名前を叫びながら入り口をくぐり抜けた。
 そこは、真っ白だった。
 否、あの光る鳥がこれでもかという程たくさんいて、部屋を埋め尽くしていたのだ。そのまばゆさを懐かしいと思うのと、エスラさんのそばに膝をつくシンドバッドの姿を認めたのとは殆ど同時のことだった。

「シン……? エスラさん……?」

 シンが顔を上げて私を見る。エスラさんはもう息をしていなかった。
 嗚呼。
 私は、間に合わなかったのか。

「エル……」
「……シンは、エスラさんの最期、看取れた?」

 こくり、悲痛な面持ちのまま、シンドバッドが頷いた。

「そっか……じゃあ…、じゃあ、いいや。良かった…良かったね、エスラさん……っ」

 ぽろぽろと暖かいものが頬を伝う。そのまま膝から崩れ落ちた。祖母は眠るように息を引き取ったけれど、エスラさんはどうだったのだろう。苦しくなかっただろうか。怖くなかっただろうか。鳥の輝きが目に痛くて、手で顔を覆った。それでも、真っ白だ。

『泣かないで、エル。今までありがとう。貴女のこと、本当の娘と同じように愛しているわ』

 エスラさんの声が聞こえた気がして、手を外した。真っ白な、鳥と同じようなエスラさんがそこにいる。これは夢か、幻か。
 貴女なら大丈夫。賢く優しい、私の娘。シンのことをよろしくね。
 真っ白なエスラさんが私を抱き締めた──そう思った瞬間、“エスラさん”は無数の光る鳥になって、どこかへ羽ばたいていった。ぼうっと眺めていると、後ろから、聞き覚えのある声がした。

「そうか、君は……魔法使いだったんだね」

 振り返ると、二ヶ月前にもシンが連れてきた、ユナンという不思議な男がいた。

「少し話をしたいけれど、今は無理だよね……」
「……ううん、大丈夫。大丈夫、です」

 涙を拭って立ち上がると、一度だけエスラさんとシンドバッドを見た。いくら本当の家族のように思っていても、実際は違う。唯一の肉親を亡くした悲しみに、私が水を差してはいけない。そっとユナンの後について家を出た。
 家の外には村の人達がたくさんいて、恐る恐るといった様子で私を見る。私は静かに首を振った。ああ。誰からともなく悲痛な声が挙がって、みんなが表情を悲しみの色に染める。シンドバッドが間に合って良かったね、と誰かが言うのも、少し遠くに聞こえた。こんなに近くにいるのにおかしい。頭がぼうっとして、耳が変になったみたいだ。
 ひとまずユナンには私の家にあがってもらったが、もてなすものが何もないことに気づいて狼狽する。謝ると、ユナンは困った顔をした。

「そんなことは気にしなくていいんだよ。……ねえ、エルハーム。本当に平気…?」
「さっき泣いたから、もう平気、です」
「……悲しいときは泣くものだよ。話は、それからにしよう?」

 なぜか一番無関係なはずのユナンが泣きそうな顔をしているものだから、私も止まったばかりの涙がまた溢れてきそうになる。そうか、私もやっぱりまだ悲しかったのか。手で抑えようとすればユナンに制され、私は声を殺して泣いたのだった。

140219 
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