なまえのない約束


 そろそろ自室へ戻って今日手に入れた書物を読みながら夜を過ごそうかと、目にかかった前髪を片手で払い除けながらゆっくりと下降する。わざわざ地面まで降りるのが億劫になり廊下の適当な所からするりと王宮内に滑り込めば、偶然にもジャーファルさんが通りかかり、私の行動に気がついて目を丸めた。

「貴方までマスルールのようなことを……」
「……今日だけです」
「あぁ、いえ、咎めるわけでは」

 そう言いながらもジャーファルさんの顔には苦い笑みが浮かんでいる。「お恥ずかしいところを」と小さく返す私も同じく苦笑した。

「お仕事は終わりました?」
「えぇ、一先ずは。ですが、シンが何処かへ行ってしまったので念の為捜しに行こうかと……」
「酒場でしょうか」
「恐らくそうだと思います。まあ、エルハームさんの所という可能性も捨てきれなかったので先に貴女を訪ねようと思っていたんですが……何処かで見掛けましたか?」
「いえ、見ていませんね。お力になれずすみません」
「エルハームさんが謝ることではないですよ。むしろこれから貴女に迷惑がかかるかもしれないですし、私の方こそ謝っておくべきかもしれません」

 昼間の会話を思い出せば、シンドバッドが酒を片手にほろ酔いの上機嫌で──或いは既にすっかり出来上がった状態で──寝物語を聞かせにやって来るというのは、確かに無い話でもないように思えた。私はきっぱりと断りの文句を口にした筈ではあるけれども、だからといってそれを大人しく飲むような性分の男でもあるまい。酒が入れば尚の事だろう。

「シンの話は冒険書でもう十分なんですけれどね」
「もしかして、全て読まれたんですか?」
「ええ、一応。とはいえあれは冒険譚が主ですし、全編を通してどうも脚色が多いなという印象で」
「仰る通りです。事実に即した話を聞きたければ、他の者に聞く方が良いでしょうね」

 先程とはまた異なる種類の苦笑を浮かべ、ジャーファルさんが頷く。他の者──と口の中で繰り返した私は、謝肉宴の最中にもヒナホホさんから似た言葉を聞いた事を思い出し、同時に幾人かの顔を思い浮かべた。

「それはたとえば……八人将の皆さんとか?」
「そうですね……幼くして国を出ている者もいるので一概には言えませんが、ヒナホホ殿やドラコーン殿なら母国以外についても詳しいですよ。彼らは昔からシンに同行して彼方此方へ行っていますから」
「確かにお二人ともお詳しかったです。謝肉宴の時に実感しました」
「そうでしょう? あの二人なら各国を比較しての話も出来ますし、聞いていて面白いんじゃないでしょうか」

 それは確かにその通りだろう。宴のほんの僅かな時間に聴いていただけでも、彼らの話は面白く、興味深かったのだ。
 けれども、私はあの二人と四方山話に興じられる程親しくないし、あのような無礼講の場でもない限りはおいそれと声をかけることも出来ない。とりわけドラコーン様には。勿論ドラコーン様は良い方には違いなく、ヒナホホさんもあの通り気さくな方であるから、どちらに声を掛けたとて邪険にされることはないだろうし、気を遣ってくれるだろうとも思う。しかし、否、だからこそ気が引ける。
 私が今一つ乗り気でない事に気がついたのか、ジャーファルさんは微かに笑って肩を竦めた。

「シンドリアは移民ばかりの国ですから、ご友人がいらっしゃるなら何人かに訊いて回ってみるのも良いかと」
「友人ですか」

 そこではたと思い当たった。
 目の前にいるジャーファルさんとてヒナホホ様やドラコーン様と同じくシンドバッドと旅をしていた古参の部下である。
 ジャーファルさんが忙しい方であることは重々承知しているけれども、異文化についてこの国の誰かに教えを乞うのであれば、ジャーファルさんは最も適任であるように思えた。近頃は私に対しても随分と丸くなったとはいえ、彼は私相手に過剰に気を遣うこともないだろう。その方が私も有り難いし、何より、ヒナホホ様やドラコーン様と比べてずっと気兼ねなく話が出来る。

「……ジャーファルさん」
「はい、なんでしょう。ドラコーン殿に取り次ぎますか?」
「ああ、いえ、そうではなくて……」
「ではヒナホホ殿ですか」
「そうでもなく……あの、ジャーファルさんにお願いすることは出来ますか」

 ジャーファルさんは面食らったようで、やや間を置いて「私に?」と呟いた。自分を指名されるとは露程にも思わなかったと言いたげな顔をしている。

「はい。お忙しいのは解っているんですが……。寝物語にとは言いません、お時間がある時だけで構いませんから」
「私はあまり面白い話は出来ないと思いますよ」
「事実に即した話なら、私にはそれで十分に面白いです」
「食い下がりますね……」
「……友人に訊いたら、と助言して下さったのはジャーファルさんじゃありませんか」

 ジャーファルさんが押し黙る。
 どうやら考え込んでいるようだった。険しいという程ではないにしても、形容し難い曇った表情が浮かんでいる。

「無理にとは言いません」

 呟くようにそう言えば、返ってきた言葉は意外にもはっきりとしたものだった。

「無理とは言ってません」
「それじゃ、」
「……本当に、時間が出来た時だけになりますがそれでも良ければ」
「!」

 ありがとうございます、と続けて口にした感謝の言葉はついつい早口になり、普段の私からしてみればそんな事は滅多に無いことだったから、上手く回らなかった舌をうっかり噛んでしまった。はにかみながら言い直せば、ジャーファルさんが小さく笑う。

「友人、ですからね」

 ──シンドバッドを捜すジャーファルさんと別れて自室へと戻る足取りは、いつもよりもほんの少し、軽かった。

180901 
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