青い花弁の祈り


「ひょっとしたらシンでさえ、答えられないかもしれません。それに──たとえシンが答えたとしても、貴女が納得できる答えだとは限らないということは覚悟しておくべきです」

 ジャーファルさんの目は報告書の文字を追っていて、決してこちらを見てはいなかった。だというのに、まるでいつかの視線に真っ直ぐ射ぬかれた時のような心地を覚える。
 私が言葉を探している間に、静かな声が再び鼓膜を揺らした。

「非難するつもりで言っているわけではありませんよ。むしろ、それでも良いのだと思います。納得できなくても、……理解できなくても。シンが何を言おうと、貴女が無理に迎合する必要はないし、なんなら対立したって良いとも思います」
「ですが──」
「貴女にはそういう自由があるんですよ。この国に今ただ一人の、シンと対等な人間なんですから」

 その言葉に私がはっとするのと、ジャーファルさんが顔を上げるのとはほぼ同時の事だった。彼の双眸が真っ直ぐに私を見やる。そこにいつか見たような冷たい色は無い。咎めるでもなく、見透かそうとするでもなく、ただ静かに視線が交わった。

「考えて、悩んで、解らないと言いながらもシンに向き合おうとしてくださること、臣下としてはとても嬉しく思います。……ただ、友人だからといって何でも理解して受け入れられるかと言えば、そうではないでしょう」
「……それは、きっとその通りでしょうけれど」
「ただでさえ、生きていれば、解らないことや答えの見つからないことなど山ほどあるんです。それが他人の思いともなれば尚更ですよ」
「……でも、たとえ解らなくても、何かしら答えを当て嵌めなければならないことだって──」
「ええ、そういうことも勿論あるでしょうね。ですが私は、今貴女の抱える問題もそうだとは思いません。──どれだけ悩んでも、解らないのでしょう?」

 私はジャーファルさんの言い分に驚いて、しかし、黙りこんだまま問い掛けに首肯した。
 彼の言う通りなのである。恐らくあの宴の晩からずっと──そう、ずっと、長いこと考えていて、それでも尚、私にはシンドバッドの考えが解らない。答えめいたものならば恐らく幾つか掴みかけたのだろうけれども、それらが私の中で腑に落ちる事はなかった。ともすれば、ジャーファルさんやヒナホホさんが示してくれた答えすらも私の中に居座り続ける困惑を助長させるのみであり、決して気持ちを晴らしてはくれなかった。
 胸に渦巻くこの靄は、一体 いつになれば消えてくれるのだろう。
 私が何も言えずにいれば、暫し沈黙が訪れた。ジャーファルさんは言葉を選んでいるように見える。ややあって口を開いたジャーファルさんは、なんとも形容し難い表情をしていた。

「エルハームさんがもう随分悩んでいることは知っています。それでも、貴女はまだ『解らない』と感じるんでしょう? 私が思うに……エルハームさんの中に答えが──答え足り得るものが──そもそも存在しないのではないかと」

 私は言葉が見つからなかった。告げられた事を噛み砕くのに精一杯だった。嗚呼──それは、つまり──恐らくは。
 迷宮を知らなければ、その摩訶不思議な内部の歩み方など思いつくことさえ出来ないように。
 ルフを知らなければ、緻密な魔法を扱うことなど到底出来ないように。
 他人が抱く感情や考えは、それと比類するものを自分が知らなければ、理解することが出来ない。悲しいも嬉しいも悔しいも、自分の中にも存在する感情だから、誰かのそれを理解し、共感する事ができるのであって、自分が認識したことのない感情を正しく理解することなどは、きっと神でもなければ出来やしないのだ。

「要するに──私は、シンの考えや感情に限りなく近いものを未だ知らなくて……、だから、解らないと……?」
「……仮説ですよ。本当にそうだとして、価値観の相違によるのか、それとも視野や見聞の問題によるのかは、なんとも」

 私の生きてきた世界の狭さを顧みれば、それは十分に頷ける仮説であるように思えた。私には、自覚しているよりも遥かに多くの知らないモノがあるのだろう。

「でも、それでは……ずっと解らないままなのでしょうか」
「どうでしょうね……いつか解る時が来るかもしれないし、来ないかもしれない。しかしまぁどちらにせよ、他者の思いを正しく理解することなんて元々限りなく不可能なんです。シンが何を考えているのか解らずじまいになったとしても、それはある意味、当然のことですよ」

 そう言うと、ジャーファルさんは慣れた手つきで羊皮紙を丸めた。読み終えたのかそれとも後回しにすることにしたのか、どちらともつかないけれども、彼は羊皮紙を綺麗に丸め終えると、そっと机の端に寄せる。それから、改めてこちらに向き直った。

「シンは貴女にどう在ってほしいのか、と先程言いましたよね」
「……はい」
「その時にも言いましたが、それはシンでなければ答えられません。ただ、一つお忘れです」
「え…?」
「──貴女がしたいようにすれば良い、」

 とっくに自分で、そういう風に話をつけたじゃありませんか。ジャーファルさんは静かにそう言った。
 そういう風に──それが何を指しているのか、思い至るまでに幾ばくかの時間が必要だった。
 簡単に忘れてしまえるような些細な事なぞではなかったはずなのに、あの日の後に積み重なった様々な出来事によって、いつの間にか記憶の片隅に追いやられていたらしい。他でもない自分自身が、シンドバッドと交わした言葉であるというのに。

「我々臣下はシンの意思に従いますが、貴女は違う」

 私の総ては私のもので、ほかの誰でもない私自身の為のもの。私自身がそう言ったではないか。
 シンドバッドが何を考えているのか、どうしたいのか、解らないことを事を気にする余り、うっかり記憶から抜け落ちてしまったのかもしれない。
 私が望まれたのは、昔のように──否、昔以上に、対等な友であり家族であることだった。その言葉通りの関係であるならば、私たちの間には余計なしがらみなど無い筈なのだ。
 嗚呼、そうだ、それならば。シンドバッドが何を考えていようとも生憎今の私には到底解りそうにないのだし、それなら潔く解らないままで、今しばらく私のちっぽけな望みを懲りずに持ち続けたって構わない筈だろう。
 ──そう、叶うなら。たとえ私たちがあの頃と同じでないのだとしても、出来ることなら私は未だ、在りし日の私たちをなぞっていたいのだ。

180520 
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