夕方から夜になりそうな空の下の公園のベンチで、先輩はドイツに行くのだと、私に言った。亜久津先輩がそんなことを言うなんて始めは信じられなかったけど、先輩の顔があまりにも真剣だからそれが真実だということを受け止めなければならなかった。私達はいつでも一緒にいた。先輩が千石先輩達に言われてテニス部に入ることを決めた時、正直先輩が部活なんて続くはずないって思ってた。その言葉はやはり当たっていて、先輩は青学の1年生との試合に負けてからテニス部を辞めた。だけど、先輩はそれから毎日辛い練習をこなして来て、テニスを積極的にやるようになった。先輩が遠くなっていく気がしていた。テニス部に入ることを決めたことも、テニスに夢中になっていくことも、始めは嬉しかったはずなのに。だんだん私だけ先輩が煙草を片手に喧嘩ばかりしていたあの頃においていかれた気がしていた。もう先輩は煙草だって、喧嘩だって辞めたのに。
先輩は私にだけ優しい。友達はみんな亜久津先輩は怖いからやだ、なんていうけど私はそんな怖い先輩が大好きだった。今でも好き。だけどテニスばかりに集中していく先輩は嫌いだった。私のことなんて忘れてしまいそうで、怖いから。そんな不安ばかりを私に残して先輩は明日からドイツに行く。もう当分の間会えなくなる。私が大好きだった煙草の香がする先輩の制服はもう洗剤の香になっている。毎日のように先輩と過ごした昼休みの屋上も、もう行かなくなってしまうのだろうか。隣に座る先輩は私に何も言わない。私も何も言わない。先輩がドイツに行ってしまう。行かないで、なんて言わない。言ったって無駄なことくらいわかってる。先輩は私がどうなろうとも関係ないなんて言うような人だから。
「先輩」
「‥なんだ」
「煙草、吸わないの」
私はポケットから先輩が好きな銘柄の煙草を差し出した。それを見た先輩は私から奪うように煙草を掴んだ。そして私の頭を強めに叩いた。
「こんなもん持ってんじゃねぇよ、馬鹿女」
「じゃあ今日は喧嘩しないの」
「しねぇよ」
先輩は煙草をくしゃくしゃに丸めてごみ箱に捨てた。私はそれが悲しかった。あの時の先輩はもう此処にはいなくて、私が好きだった先輩は消えてしまった。先輩が喧嘩で怪我ばかりするからと持ち歩いていた絆創膏も必要がなくなってしまった。私はあの頃のまま、動けずにあの頃の先輩を見てるのに此処にいる先輩は先輩であって、先輩じゃなかった。下ばかり向いている私に先輩は溜息を吐いた。
「帰るぞ」
「やだ」
「餓鬼みてぇなこと言ってんじゃねぇよ」
「‥やだ」
泣くつもりなんてなかったのに、何故か私は泣いていた。先輩がそれに気付いて、私の肩を抱いてくれた。
「泣いてんじゃねぇよ」
先輩の方を向いて、目を綴じると自然とキスが落とされた。先輩の制服はやっぱり洗剤の香がした。あの頃の先輩はもういないことは知っていた。先輩が好きだからと言って、愛用していた真紅のルージュは私には似合わないことも私は知っていた。