それは”序章”
コツリ。靴がコンクリートを鳴らす。
いつもと変わらない道を一人で歩く。
日はもうだいぶ後ろにあって、長い影も暗がりと溶け合ってしまいそうだった。夕方過ぎぐらいの住宅街。時々風に乗ってくる夕飯の香りが、綾乃の空腹を刺激する。
この家は焼き魚。その後ろはハンバーグ。なんて下品にも嗅ぎ分けたりして。
いつもこの時間、人は滅多に通らない。
この住宅街は彼女が幼い時から住んでいるので、顔見知りしかいない。必然的に近所の生活サイクルを体で覚えているのだ。
「そろそろ夏本番だねぇ」
耳にはめたイヤホンから流れるお気に入りの曲に気分をよくしながら。綾乃は肌で感じた気温に、思わず独り言を呟いた。
突如、ぶつりとイヤホンの音が消える。
サビのあたりで消えた曲を不審に思い、彼女はそれを外した。自然に足も止まる。
ポケットから出したミュージックプレイヤーの画面は、本来曲名を表示しているはずなのに真っ暗だった。
「電池切れた……」
がっくりと肩を落としたが、家ももうすぐ。彼女は気を取り直してイヤホンを片付け始めた。ふと、視線をあげる。感じるはずがないが、見られて居る気がしたのだ。
そして感じるはずがないのに、綾乃が視線を移した先には、本当に人間が居た。
見慣れない制服を着た高校生。遠目だがズボンだから当然男子だろうと予測した。珍しい。ここらに越してきた人だろうか。
そんな事を考えながら綾乃はまた歩き出す。イヤホンを外した耳は外の音を細かく受け取る。
例えば、後ろで聞こえる足音とか。
この先は綾乃とその隣の安形の家しかないそれよりも先は住宅街の子供達のための公園があるだけだ。綾乃の中に少しずつ不信感が募る。
あの男が何をするためにここらを歩いているのか、疑問に思い始めていた。
まさか迷子のはずがあるまい。住宅街と言ってもあまり密集した所ではない。この先の十字路で曲がらなければ、そろそろ、なにか怪しい。
痴漢注意の看板を横目で見ながら、彼女は信号機の無い十字路を横切った。
そこに建てられたカーブミラーを、ちらりと盗み見る。曲がれ、曲がれと念じた綾乃の思いも虚しく。
綾乃の後ろ姿を見た青年が真っ直ぐを歩いていた。
生徒会室の扉がノックも無しに開かれる。ここ最近のこの不作法はやる人間が決まっているから、最早誰も驚かない。
「ねぇねぇ、安形まだ?」今日もまた同じ様に言った。面倒臭そうにプリントを眺めていた安形が顔を上げる。ずかずかと入ってきた綾乃に嫌な顔一つせずに、また来たかという言葉で迎えた。
「早く帰りたい」
「今日もまだ無理だな」
安形の言葉に顔をしかめた綾乃が、生徒会室をぐるぐると回り始める。見かねた浅雛がイスを出そうとしたが、椿が止めた。
いつものことだが、彼は眉根を寄せて綾乃を見る。
「早く帰りたいなら帰ればいいでしょう」
「だまらっしゃいカタブツ」
けっ。反抗心を丸出しにした綾乃は、浅雛が用意しかけたイスを自分で運ぶ。安形が座る隣にそれを置いて、よいしょと座り込んだ。
椿がそんな綾乃にイライラしていると感じたのか、安形が椿の名前を呼ぶ。まるでそれが義務かの様に、素早く返事をする椿。「犬だ」誰にも、特に椿に聞こえない様に綾乃はつぶやいた。
「昨日は悪かったな、お楽しみ中に」
「あ、あれは違うと再三申したでしょう!」
ピリピリした空気を変えようとした安形なりの話題だった。どうせすぐいつも通りになるだろう。
しかし安形の考えも虚しく椿の機嫌は急降下していく。
彼のシャーペンを持つ手にも力が籠もる。三白眼がじろりと綾乃を見た。
「一人で帰れない理由でもあるんですか」
疑問を投げかけるにしては愛想の無い言い方である。敵意の籠もったそれに、当然綾乃も敵意で返す。意地の張り合い。子供の喧嘩。
相変わらずのそれにさすがの安形も苦笑いが隠せない。なんとかしろと言う部屋の空気と、あからさまに表情を崩した綾乃への嫌がらせの為、彼もまた口を挟む。
「それは俺も聞きてーな」
「笑わない?」
「なにか深刻な問題なのか?」
意味深に視線を泳がせた綾乃を追い詰める様に、浅雛が首を傾げた。丹生も秦葉も、興味深いと目を向けている。
眉を顰め難しい顔をした綾乃だったが、やがて少し開けた口から小さな声を出す。最近と掠れた彼女の声に、丹生が同じ言葉を繰り返して続きを促した。
「ストーキングされてるみたいでして」
「はぁ?」
一番に声を上げたのは他でもない一番近くに居た椿だった。表情は、あからさまに疑っている。
「被害妄想ですか?」
「私をどんな奴だと思ってるんだよ!」
眉尻を下げて聞いた椿の頬を綾乃が抓る。嘘ならもっとましな物にしろと言った口はその所為でうまく動かなくて、ひゃいひゃいと適当な音を出すだけだった。
次に口を開いたのは心配そうな顔をした秦葉で、彼女は戸惑いながら手を離す。
「大丈夫なの?」
「今のとこはね」
はははと乾いた笑いしかこぼせない。綾乃は何か思い起こしたのかがっくりとうなだれた。
その隣では、安形が俯いて腹を抱えて震えている。笑いを堪えているのは一目瞭然。鬼畜野郎めと綾乃の心の中で罵倒した。
「何もないなら良いんだけどね」
「今のところはって感じ」
「何も良くないぞ」
苦笑いで返した綾乃に大きな声を出したのは浅雛と丹生。密かに浅雛の右手がピースで、丹生の左手には携帯電話が握られている。それに気付いた綾乃は、必死に二人を宥めた。
彼女たちが何かやる気になっているときは大概どうしようもない。
「その内飽きるって」
「ダメだ綾乃さん、相手を教えろ」
「その指で何するつもり!」
「目玉をえぐり出す」
「ぐろい」と叫んだ綾乃の肩に、丹生が手を置く。彼女が振り向いて、すぐさま後悔した。たった今丹生の携帯がどこかに連絡を繋げようとしていて、綾乃は力の限りそれを阻止する。
だから嫌だったんだと小さく呟けば、秦葉に軽く睨まれた。「そういうことじゃないでしょ」と目が語っている。
「ボディガードをお貸ししますわ」
「いらん!」
「何故ですの?」
困ったように眉尻を下げた丹生に、綾乃も困ってしまう。口淀んでから、あまり気にしないでと宥めたが、あまり効果があるようには感じられなかった。
「あのね」と言葉を継ぎ足そうとすれば、今度は椿に遮られる。
「警察に連絡すれば良いじゃないですか」
「いや、だからね」
「高校生だけで解決させようとするのが間違いですよ」
綾乃の顔が盛大にゆがむ。あああと頭を抱え、今にもうなだれそうだった。より一層怪訝そうな顔を向けた椿に、彼女は大きくため息を吐き出す。
あんまり大事にしないでと切実な叫びで言った綾乃に、今度は安形が口を開いた。
「なら俺に考えがあるぞ」
綾乃の勘で、それが良いことではないのがすぐわかった。
しかし生徒会の圧倒的な信頼を得ている彼の意見に、反対出来る空気が作られる筈がなかったのだ。
勘弁してくれと小さく呟いた綾乃の声は、もう誰にも届かない。
[ 5/6 ][*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]