それが“普通”
「待て愚か者! 今日と言う今日はその髪黒くしてさしあげます!」
「うっせ! お前こそその下睫毛どうにかしな!」
今日も平和な開盟学園。そこではしばしば壮絶な戦いが繰り広げられている。というか、毎日。
周りの生徒は彼らのことをほのぼのした目線を向けている。
むしろ、今や見ているものすら少ない。
それほどまでに二人の男女の“追いかけっこ”は、開盟学園の朝の恒例行事となっていた。
普通の風景と同等に扱われてしまうほどに。
追いかける、いわば鬼役の全速力で相手を追いかけている男。
彼は全校生徒に言わずと知れた開盟の生徒会副会長である、二学年F組椿佐介。
追いかけられるほうで、体力が限界になり息も絶え絶えになっている女子生徒。
この追いかけっこにより有名になった三年生の坂城綾乃である。
広まったのは悪名であり、名声なんかではないのだが、有名なのだ。
年下の者が追いかけて、年上の者が追いかけられる。普通ではない、どこの誰が見てもおかしい異様さ。
この二人の毎朝恒例となった追いかけっこは開盟学園の全員に近い数の人間が確認している。
何しろ学校中を走り回るので、知らない人間の方が珍しいぐらいで。
密かに「今日はどちらが勝つのか」なんて話し合ったりする、いわば話題の行事なのだ。
種目こそ子供達がやるようなほのぼのとした種目で、大声をあげながら走り回る二人は本当にほほえましい。
小学生がやっているのだとしていたら、更に微笑ましい。
それの原因は、坂城綾乃の金色の髪に、少し下からなら下着が見えてしまいそうなほどの短いスカート丈。聞くだけならなんとも学生らしい可愛い理由だった。
可愛い可愛い理由だった。聞くだけなら。もし小学生がやっているのなら。
スカート丈の短い女子を男子が追いかけるのはいささかおかしいと言うかも知れないが。
この追いかけっこを見た学生達は口を揃えて言う。
あれは映画以上に過酷なデスレース。
殴る蹴るは当たり前。
口の応酬だっていつものこと。
どちらかが技をかけるのだってあり。
人を使うのもあり。
ていうか何でもあり。
ルールは無いというルールであるこの鬼ごっこは、可愛いとは言い難い。
小学生がやろうとしてもできるわけが無いのである。
それでも二人が何の怪我も無いのは、二人だからとのほかに言いようが無い。そう、二人だからなのだ。それ以外の理由は無い。
「今日は貴女のためにブロ○ネを買ってきてあげたんですよ!」
「白髪染めじゃん! お前買ったの!?」
椿が追う。綾乃が逃げる。椿が追う。綾乃が逃げる。椿が追う。綾乃が逃げる。
椿が追う。綾乃が逃げる。椿が追う。綾乃が逃げる。椿が追う。綾乃が逃げる。
延々と。延々と。
この追いかけっこが終わるには、あの手この手を駆使した綾乃がHRが始まる鐘が鳴るまで椿から逃げ切るか。綾乃の体力が底を付いたところを椿が捕まえるかの二つが多いが。
あえて例に出すのなら。
めったに無い稀なケース、綾乃の幼馴染であり、椿が唯一言う事を聞く人物。安形惣司郎が椿をじきじきに止めると言う裏技があった。
「くたばれ下睫毛!」
今日も今日とて、二人は至って朝から元気そうだ。また誰かが今日の昼代を賭けた。誰かはまたやってると呟いた。
そんな中。
きゅきゅきゅ、とゴムと廊下がこすれあう音が響く。いつもの事だと流して見ていた周りの人間が眼を向けた。
綾乃が前へと向けていた走るための力を、正反対の方向へと進める。こすれたのはその音だったようで、綾乃が振り向き終えた頃には音は何も聞こえなかった。
そしてそれから椿に向かって走る彼女は腕を伸ばし、脚を前に出す。さらりと綾乃の長い髪が靡いて。
今度は椿の靴が音を奏でる番だった。
それはまさにラリアットの形。しかし椿の長身と、綾乃の小柄な体型が合い混じって。綾乃の猛スピードの腕は本来正しい場所である首ではなく、腹に。すばらしい勢いでヒットした。
ボディブローと言ったほうが正しいのだろうか。それは誰も知る由が無い。
一瞬の出来事だったのだから。
「あっ、なたと言う人は……」
「今日は私の勝ちだ。ザマァみろ副会長! 来年会長になってから来るんだね」
「来年貴女は卒業じゃないですか!」
ふふん、と綾乃が優越感に浸り椿を見下ろしている間に、椿は何とか痛みから回復する。
勢い良く立ち上がった長身の彼。その表情はもう痛みは感じていない。そして猫にそうするように、がしりと綾乃の首根っこを掴んだ。
首根っこをがっしりと掴まれて初めて、綾乃は自分の身の危険に気付く。
おや? おやおや?
椿の手によってがっしりと掴まれた。母猫が自分の子にするように掴まれたのは、長い髪を掻き分けたブラウスの首襟。
今日ほど彼女が自分の間抜けさを悔やんだ日は無いだろう。
それらが意味するのは綾乃の負け。
敗退、失敗。敗北。でふぇあっと。
惜敗と言えば、まだかろうじて綾乃のプライドは守られたのかもしれない。
しかし綾乃は理解すると同時に顔を青くした。この戦いでは、負けると危険が等式で結ばれるのである。
ははは、とかすれた声が椿に聞こえたような聞こえなかったような。
無理やり逃げようとして、金髪が笑うようにふわりと揺れた。今日ばかりは。この髪の所為でと思わざるを得なかったようで。綾乃は眉尻を下げながらも前髪を睨んだ。
「捕まえました、観念して下さい。今日こそ髪を黒く染めあげます!」
「これは地毛だって何回言ったらわかるの!? 染色こそ校則違反!」
「校則では黒が基本です。それに僕が言っているのは髪だけではありません」
「しつこいな、服装は自由でしょ!」
綾乃は首根っこを掴まれながらも必死に抜け出すための隙を見つけ出そうとして考える。
負けず嫌いだからであろう、何とか床に着く足の力は抜けない。彼女は必死に周りを探す。残す手段はおそらくあと一つ。
しかし。いつもいつもいらん時には来てくれる彼が、今日は綾乃に味方しなかった。
安形はどこにも見当たらないし、この手をどうにかして離してもらうのも無理らしい。
はぁ、と溜息をつきながらも彼女は体を固定したまま生徒会室への道を拒む。つま先に力を入れ、少しでもスピードを下げる。
誰になんと言われても、この髪と服装を帰るつもりは綾乃には一切無い。彼女のその髪には、プライドを掛けてるのだから。
そこで綾乃は、昨日アニメで見たようなあの手は使えないのかと思いつく。弟達が見ていたあのアニメ。三人もいる中の誰の趣味だかは知りもしないが、お勧めされたことは確かだ。
痛恨のミスとして、彼女はそれが冗談であったことを知らない。
しばらく苦戦した後、彼女は椿の目の前で涙を浮かべ始める事に成功した。生理的な現象で、わずかに鼻をすすった彼女は、立派な女優である。
ただし、もう一度言うが、彼女の弟達はそれを冗談として伝えていたつもりで居たのだ。
「な、なんですかっ!?」
「つばき、ひどいっ。わたし、うっ」
「な、何故泣く!?」
弟達が聞いたら目を丸くして驚くであろう。姉がばかがつくほど正直だったのだから。しかしながら、相手は運が悪く椿だったのだ。
空気嫁男と名高い彼は女性の扱いなどまったく知らず。自分に過失があったのかと慌て始めたのだ。
もちろん、それは綾乃の思い通り。黒いノートを持った青年も驚きの「計画通り……!」の表情である。
まさに悪人顔。
実際は泣き顔であるのだけれど。
「何を泣いてるんですか!」
「だっ、て」
「頼みますから泣かないでください! 乱暴したことは謝ります!」
綾乃が心の中でほくそ笑んでいることも露知らず。顔を真っ赤にさせて涙目になり椿を見上げる綾乃はもはや本当に泣き始めている。
女子の体の不思議とでも言うべきか、彼女は自分が泣かされるような環境であると錯覚さえし始めていた。
椿の手は緩んで、今や綾乃を泣かせてしまったと慌ている。なんとか機嫌をとろうと、彼女は女性だったという事を再認識して忘れていたかのように。
いや、事実忘れていたのかもしれないけれど。
本格的に椿が混乱してしまい、流石にやり過ぎたかと冷静になった綾乃は。どこら辺で切りあげるべきなのかを鼻をすすりながら考える。
弟たちはそこまで教えてくれなかった。
椿にはなにがあったのかと疑問の視線と、なんで女子を泣かしてるんだよという目線が突き刺さる。
彼の混乱は熱を上げて行き、顔を真っ赤に染め上げていく。
「そろそろ鐘鳴るぞ綾乃」
「あ、惣司郎ナイスタイミング」
「会長……え、どういうことですか!?」
安形が綾乃の肩を叩いて「いじめてやるな」と制すれば、綾乃の涙は嘘のようにぴたりと止まる。実際真っ赤な嘘だったわけだが。
彼女にとってよい止め時が見つかったようで喜んでいた。
それを目にした椿が信じられないと言う顔で目を見開く。顔の温度も急速に落ちていった。
今までのが演技だったと気付いてしまった椿は再び怒りを再発させる。
「椿、お前大丈夫か?」
「僕はいつでも平静です会長」
鐘が鳴るまであと三分ばかりしか残っていなかったが、椿が綾乃に掴みかかるには十分だった。しかし、彼女も怒った彼に気付くには時間の余裕があったらしく。
いつにも増して激しすぎる戦いが繰り広げられる朝になったのだ。
素直に捕まっておけばお互い面倒な事にならなかったのにと思うのは、安形だけではあるまい。
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