それは、夏も終わりに近づいたある日のことだった。

 夏休みも終わってとうに学校は始まっていたし、進学志望の私は当然放課後の課外授業に出席しなければならないはずだ。けれども夏休みが始まる少し前から始まったそれをまだこの青葉城西高校のバレーボールにしがみついていたい私は春高予選を口実に欠席していた。そんな私を無理やり引き剥がそうと選手ではなくマネージャーなのだからと諌めて担任や学年主任が再三引退を勧めてくるのを無視して私は夏休みの課外授業にも放課後の課外授業にも出席しないことをきっぱりと告げたのだった。なんとも愚かな話だろう、十代にとって将来なんて言葉はあまりにも不鮮明で半年後の受験よりもより近い春高予選の方が確かな未来なのだ。
そうは言っても今日は月曜日、さすがにオフの今日は出席することになっていた。級友たちのものと比べて然程草臥れてはいない問題集を前にげんなりとしてみせる。ぐだぐだとまだやる気の欠如した教室の気怠い喧騒の中、それに負けず劣らず気の抜けた声が聞こえたのはその時だった。

「おーいなまえちゃーん」

 たぶんこれが後輩連中の教室なら色めきたった声が上がるのだろうけど、3年の、殊に私のクラスに及川を見て歓声を上げるような輩はいない。マネージャーと主将という関係故に及川が私のクラスに訪れることは無いわけでもなかったけれど、進学科のお堅い空気は彼には敬遠したいものなのだろう、私が呼ばれてそちらに出向くことがどちらかというと多い。それが今日はもしかするとメールを打つ暇がなかったのかなんなのか、直接私の教室まで出向いてきたのだ。

「なした?今日オフでしょ」

 鬱陶しげに問題集を机の上に放り投げて奴が立つ教室前方のドアに向かう。私からするとさして小さくもない教室の入り口は、及川が立つと随分と小さく感じた。まあそれはうちの部の連中に総じて言えることなのだけれども。だから彼らに用があるときに私は絶対に教室の後方にまず目を向けるようにしている、何度席替えが在ろうとも出席番号順だろうと彼らの姿は教室中ほどから後ろのエリアにあることが常なのだ。
 それはさておき、唐突な訪問者は「今日暇?」と訊いてきた。こいつも一応進学希望のはずだから私と同じように課外に出る義務があるはずなのだが。それとも進学科は他の組よりも早く始まるのか、あまりよく覚えていない。でも及川はよく考えなくても県内総合力No.1の肩書を持っている。全国に今まで出なくたって、各大学が欲しがっているという声を私もどこかで聞いた覚えがあった。だから私のようにあくせく勉学に打ち込まずとも何とかなることにはなるのだ、腹が立つことに。

「……私、今から課外なんだけど」
「ありゃっ、そう言えばそっか」
「あんたはどうせ面接とかそんなんでなんとかなるんでしょうねえ」
「まあね」

 半分くらい憎まれ口なのにも関わらず、いつもと変わらずピースしてくるあたり性格が悪い。別に今に始まったことでもないし、それに対していちいち目くじらを立てる程子どもでもない、というより確実に慣れというべきか、もはや完全に疲れていた。

「っていうか、そう訊くってことは部活とは関係ねえな。よし、じゃあね」
「あー!待って、待ってよぉ!」

 情けない声を上げながら追いすがるのに仕方ない雰囲気を出しながら振り返る。このやり取りはもはや、生活の一部だ。容易に捨て去ることなんて到底できない、優しい生活の一部。そう思っていることなんて、だれにも教えたりはしないけれど。

「何よ」
「課外ってことは、それがなきゃ暇ってことなんでしょ」
「まあ、そりゃそうだけど」

 そう言っている間にも、うちのクラスの連中は続々と課外授業のために指定された教室の方へと向かっていて人も疎らになって来ていた。そうして遂に今日の課外の担当教員が私たちの傍を通り過ぎようとしていたところだった

「先生!今日ちょっとなまえちゃん借ります!」
「はあ!?」

***

 どうしてこうなったのか、私には分からない。平日の学校が終わってすぐの時間帯だからか帰宅途中の学生の姿が多い。私たちもきっとその中の一人に見えるのだろう。

 なぜか、私と及川は現在電車に揺られていた。

 本当になにがどうしてこうなった。私は本当なら数学の課外のはずだったのに、及川に勝手に緊急ミーティングだとか言って連れ出されたのは部室でも体育館でもなかった。なんなら駅前アーケードのどこかに他の連中と待ち合わせているのかとも思ったらそういうことでもなく、さっさと駅の奥まったホームまで連れてきたのだった。
 気づけば、車窓は地下を過ぎてしばらく経って海が見えてきた。小さい頃、何度か遊びに来たことのある風景だ。最後に来たのは一体いつのことだったろうか、たしか小学生くらいだったような気がする。それなりに年齢も重ねて行動範囲は大分広がって、幼い頃よりも簡単に訪れることができるようになったはずなのに少し足を延ばせば来ることができるはずのところには却って行かなくなるものなのだろうか。
 隣に座っている及川に恨みがましく視線を移せばいつもと変わらないへらへらとした調子で「ごめんねぇ」なんて言ってきやがった。本当だよ、まったく。先へ進むにつれて、人が捌けてきたからなのか電車内の冷房が一気に効いてきた気がする。薄花色の半袖シャツから伸びた剥き出しの腕が微かに粟立っていた。どうせ課外の特別教室だって冷房があるのをいいことに低めの温度に設定されるのだから羽織るものを持ってくるべきだったのだ。

「ねえ、どうしちゃったの」
「えーっと、言ったら怒られるから言わない」
「何よそれ」

 次で降りるよ、と及川が言ったのは少しだけ予想通りだった。一体こいつは今までに何人の女子とここへ来たのだろうか。少しのレトロさを感じる水族館、それこそ幼い頃に来た思い出が朧げに残る場所だ。少しだけの遠出にはちょうどいい、海と駅のすぐ近くにあるそこに何を思って私を連れてきたのか。デートとか言い出したら次の瞬間には殴る気しかしない。だから、言わなかったのだろうか。

「……お母ちゃんがさあ、招待券当てたはいいけど俺今彼女いないし。男と来るのは悲しいし」
「甥っ子君は」
「アレはこういうとこ来るよりバレーのが楽しいらしいよ」
「あんただってそうでしょうよ」

 そう返すと、及川は自嘲気味に笑った。夏休みだってほとんど練習漬けで、ほんの少しのお盆休みでさえ一体何をしていたのか想像に難くはない。分かりにくいようでいて、至極単純な人間だということは高校生活の殆どを共に過ごして分かったこと。そこらの女子と違ってなかなか振り向いてはくれないバレーだか勝利だか、もしくは運命の女神サマみたいなやつを追い求めて、愛情が変な方に暴走している。それだけのことだ。そりゃあ他の女がみんな逃げ出すわけだ。

「そういうなまえちゃんは?どうなのさ」
「大好きよ、ムカつくくらいに」
「んだからさあ」

 しかしそれにしたって、今日ここに私と来た理由になりはしない。でもここまで来てしまってからには帰るのも癪だ。そういうことにしてこのわけのわからない及川の誘いに乗ってやることにしようと思った。
 平日の夕方なんて貸切状態でほとんど人がいない。そんな状態だと普段人波が激しいところでの大丈夫?逸れないように手でも繋いであげよっかなんて軽口も出ては来なかった。ジャングルを模したディスプレイの中で泳ぐ魚たちは案外地味な色合いだとか、他愛もないことを言いながら進んでいく。チンアナゴでちょっとはしゃいだら少し引かれたのが解せない。

「えっ、なまえちゃんどうしたの」
「だって人気じゃん。知らない?」

 ネットとかでさ、よく見るじゃないって言うと及川は些かショックを受けたように見えた。

「嘘……俺そんなの聞いたことないんだけど」
「及川さあ、変なとこで世情にうっといよねえ」

 少し大げさなくらいに憤慨してみせるところが、うざったいけど嫌いではない。彼女の前ではかっこつけたがりのええかっこしいな及川がこういう態度になるのは甘えなのだ。受け入れるにしてもあしらうのにも大分エネルギーと容赦のなさが必要になるそれが、二人だけだと少しだけ楽な気がする。これが校内ならきっと疲れていただろうけれど、だれも見ていないからなのか私も大分気が抜けているのだろう。
 でも、本当に及川は微妙に抜けたところのある奴だ。そういうところもまた、フラれる原因なのだろうけど。ここまで来るともう一周回ってかわいく見えたりするのだろうか、好きな奴にとっては。そう思ってしまったら手遅れの範疇に入るに違いない。私は決してそういうのではない。断じて。
 幼い頃はずいぶんと広く見えていた水槽は、今では多少手狭に見える程だった。私でさえそうなのだから、及川からしたらもっとそう感じるのかもしれない。眼前を悠々と泳ぐ白黒のイルカたちだって、初めて見たときはとても大きく映ったのに今では私の方が大きいらしい。時間って、残酷なものだ。

「なんかもっと大きそうに見えんのに」
「配色がシャチだからじゃないの、あっちは大きいじゃない」
「あ、そっか!」

 イルカの水槽を見下ろす位置に来れば、室内で目ぼしいものは無い。土産物を少しひやかして、ペンギンを眺めて泳いでるところがマジで鳥みたいだなんて在り来たりなことを言いながら敷地内を出る。遊覧船に乗ろうなんて高校生の身分では思わないし、漁船が並んで停まる臨海公園を歩くくらいに留める。

「……あのさあ、なまえちゃん」
「うん」
「今言うつもりとか全然なかったんだけどさ、なんかもう負けたみたいにしか聞こえなくって」
「なんだよそれ」

 まだ大会は、試合は始まってすらいない。話の切り出し方が不穏すぎるじゃないか。

「あいつらはまあいいんだけど、なまえちゃんは良かったのかなって。レギュラーじゃない奴らもほとんどもう引退したし?後釜はそりゃいなかったから残ってくれて嬉しかったけど、それも半分はねえ」
「何よ今更。ってか、後釜は私にとっても言い訳、だったし」

 予期せず小さくなっていく声、口にしてしまえば苦い響きを以て落ちる。受験から、進路から目を背けたいとかそういうわけではなかった。けれども、ただの、私がそこから離れたくないがための言い訳は普通はそうとらえられてしまうのだ。ある時から私にさえも及川徹が与えてきた夢があって、それを私が置き去りにしたくなかったんだ。全国という、夢を。

「なんかさ、ありがとうって言うタイミング逃しちゃったから伝えときたかっただけ。及川さんロマンチストだからさ」
「知ってる。ベタなの好きだよねえ」
「ベタって。うん、まあそういうことだよ。俺はねえ、もうなまえちゃんのこと愛してるよほんとに」
「……」
「ちょっと!黙らないで!そんでもって疑いの目で見ないで!!」

 ぽろりといとも容易く軽く転がり出てきた言葉に、うっかり手が出そうになった。でも、及川のこういう言葉は多分安いものでそれにこの言葉に含まれているのは浮ついたそれというよりも愛着とか、そういうのなのだ。

 そうでなくては、困る。

「あーあ、暗くなってきたねえ。帰ろっか」
「そうね明日も早いし。……あんた、くれぐれも早く寝なさいよね」
「うっわ、なまえちゃんまで岩ちゃ、いやお母ちゃんみたいなことを」
「こんなでかい息子要りません」

 稜線の向こう側に日が沈んでいく方に向かって歩き出しながら、やっぱり真意は全部終わってから訊いてやろうと思った。


あとがき
えっ 何これ長い(ドン引き
また及川かよ


150511
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