※史実寄り
※やんわりと死ネタ


終の棲家も追われても、生物はそこへ戻るために足掻くのだろう。住めば都という言葉は、そのような処を見つけたものが好き好んで古巣を出た者が口にすべき言葉であって間違っても追い立てられたものが使うべきではないと、考える。そんな時に使うのはただの、そこまで出かかった言葉を乱雑に奥に押しのけるとなまえはそっと天蓋から垂れ下がった薄絹を捲り上げた。
「……公主様、お目覚めですか」
「おはようなまえ」
季節は夏の茹だるような暑さもすっかり薄れて秋に差し掛かろうとしていて朝晩は冷える。都から遠く離れた辺境の地では朝廷のいざこざに巻き込まれることもなく穏やかに時が流れるが、静けさと寒さは人恋しさを募らせる。
「今日は少し出かけて参りますね」
「また、貴女に気苦労をかけてしまいますね」
見透かすような視線を投げかけられて、なまえは思わず俯く。彼女の慧眼には敵わない、主たる者として当然のことなのだろうがそれでも、気取られてはならない感情を汲み取られては従者として問題である。
「貴女と私の間で、隠し事ができるとお思い?」
「そう、ですわね……」
自分のたった一人の兄弟に、よくない感情を持った不実な従者の方が家族以上の絆を結んでいるとはなんともこっけいな話である。少女の時分から苦楽を共にした仲なのだから、
「兄上は、相変わらずなのでしょうね」
「……」
「ねえ、なまえ。兄上はきっと、私の息災などもう気にかけてもいないのでしょう」

だから、行かずともと言いたいのだろう。しかしそれはある種の敗北を喫したように思える、そしてそれを許せないと思うのなまえの中に微かに残っている武人としての矜持であった。

来るたびに居心地が悪くなるような心地のする、それは城全体に蔓延った暗鬱とした空気のせいかもしれなかったしなまえにとって見知った顔が尽く見えなくなってきたせいかもしれない。そんな回廊の向こうに、やっと見知った顔を見て安堵に似た息を吐く。しかし、その顔色はお世辞にも良いとは言えなかった。かつての良人のそのような姿になまえの胸の奥がつきりと痛む、そう呼んでもよいのか分かりかねるけれど。
そっと見つめていたつもりだったが、歴戦の将に勘付かれないはずがなくこちらの存在を認めて陸遜は一瞬驚いたように目を見開く。そうしてゆっくりとこちらにむかって歩み寄ってきた。
「……お久しぶりです、伯言様」
「ええ、息災のようで何よりです。公主様も、お変わりなく?」
「はい。伯言様は」
その先を続けることは、できなかった。聡明な彼がそのことに気づかぬはずもなく、苦笑が浮かぶ。用はもう終わったのかと尋ねられ、答えると今度は時間はあるかと訊かれる。しばしの逡巡の後に頷くと、こちらに設えてある丞相の執務室に連れてこられたが房の中の空気はどこか余所余所しい。それは、彼の本拠地が未だ武昌にあることからだろう。
「私は時間を持て余しておりますが、伯言様はそうではないでしょうに」
「そうですね、ですがこんな機会は稀でしょう。そちらに顔を出すこともできませんし……ですが近いうちに伺いたいと思っておりますよ」
「それは是非とも、公主様もお喜びになられますわ」
やんわりと政治から遠ざけられたあの屋敷でなら、この御仁もなんの気兼ねもなく過ごすことができるだろう。二人のように。この房が彼のための場所でありながらそうでないように、この城はなまえの主の家であって家ではないのだ。あまりここに長居しては、もはや嫌疑の凝り固まってしまった城主にこの人が在らぬ疑いをかけられるやもしれない、そんなどこか落ち着かない場所になってしまった。早々に退出しなければ、と思いながらも体は動こうとしない。それが紛れもなく未練であることを、なまえは知っているし自分もまた愚かな性の持ち主であると辟易せずにはいられない。そうしてるうちに、不意にひやりとした感覚が手の甲を撫でて肩が跳ねる。
「……すいません、でも、もう少しだけここに」
絞り出すような声音に、じくじくと胸の奥が痛み出す。触れた指先はやがて、ゆっくりと絡んで面映ゆさになまえは目を細めた。嫁いだその夜に閨の中でこうして二人向き合ってただ手を握って話をしていた。あの夜、慈しむように少女の目を見つめていた青年の背にはあまりにも多くのものが増えすぎた。その対面で瞳を揺らしながら青年を見上げて幼い頃から武器を握り、女人らしくない手を恥じた少女はあまりにも多くの哀しみを胸に抱きすぎた。その時間を直視するのを躊躇うように重なり合った手を眺める。一回り小さい手を包む掌は、追憶の中ではあたたかかったはずなのに悴む程に冷え切っている。
共に歩むと決めたはずだったのに。傍にあった時間は瞬きをするよりも短かったように感じて、耐える姿を遠くから見ていることの方が長かったとは。
「なまえ、私は」
「陸議様、貴方はいつでも忠しい方でいらっしゃるわ」

ぽたり、ぽたりと手の甲を落ちるものには気づかないふりをした。このまま、二人手を繋いで同じところだけを見ていられたらと思ったことなどもう数えるのにも飽きるほど。帰る場所がもしも同じであるならそれはとても、しかしそうするにはもう
ならばせめて、と願いながら

「それに、とてもお優しい。私は、いつだって、これからも、貴方様が御心のままにいてくださればそれで何も要りませんの」


「ああ、また降ってきましたね」
ひらりひらりと、頼りなく宙を舞うものに尚香は目を伏せた。この季節は、どうにも嫌なことばかり思い出してしまうものだ。身体だけでなく、心も冷えてしまうからだろうか。
「公主様、冷えますゆえ早く戻りましょう」
ずいぶんと若い鈴の音を転がすような声はかつての忠臣と初めて顔を合わせた日を思い起こさせる。年寄りとこのような片田舎では、少女にとっては退屈であろうに。
「今日はね、どうしてもここに来なければならなかったの。一人でもよかったのだけれど、きっとそうしたらあの子たちは公主が共もつけずになんて叱るでしょうから」

二つ並んだそれを愛おしげに見つめる尚香の瞳には微かな寂しさが滲む。こういう宿命だったのだろう、この者たちが帰るべき場所など一つしかありはしなかったのだから。積もった雪を踏みしめる音が遠方から聞こえて、ふと笑みを漏らした。彼の人がちゃんと此処に現れることに最初は驚きはしたもののどこか安堵しているのはその人に対して切りようのない情がしっかり内にある証拠だ。

「ねえ、兄上。もう私たちだけしかおりませんよ」

私たちは、いったいいつどこに戻ってゆけばいいのでしょうね



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