愛という呪いを吐くにはあまりにも僕達はか弱い



あ、は、と荒い息が二つ。暗い室内でも彼の黒髪は艶を失わない。くれはさん、と熱に浮かされて舌足らずに呼び上げる声に支配欲が昂る。彼はセックスのときだけ私のことを名前で呼ぶ。腰を深くすると、年に見合わない色気を孕んだ声が空気を湿らせた。



彼と体を繋げるのはこれが初めてではない。彼には同い年の結ばれるべくして結ばれた恋人がいるが、私と初めての行為をしたのは記憶が正しければ彼女と晴れて付き合うことになったその後だったように思う。彼の体の経験がどちらが先なのかは、私の知ったところではないが。

彼曰く、寂しい、のだそうだ。どうしようもなく体が寂しいのだと。人に触れていたいのだと。女と向き合うのとは違う、男に抱かれないと、熱を感じることができないと。人間の価値観は多くが育ってきた環境に由来するが、彼の家庭環境が歪であることは私と同じように彼と関わっている人間には周知のことであった。地上最強の父を持ち、腹違いの兄と闘い。そして、いつだったか母親について聞かされたこともあった。聞いても聞かなくてもいい、といったように滑らかに語られるそれは、上の空に聞き流すにはあまりにも悲惨すぎた。彼がなぜそれを私に話してくれたのか、私はまだ想像できずにいる。

彼と接した人間は、みんな範馬刃牙という特質に毒される。最初、弟がやけに気にしているくらいの印象だったが、今ならわかる。私もそうなってしまったからだ。そしてそれはおそらく、彼の寂しさとそこから来る熱情と倫理観そのものが闘った人間にうつってしまうからだと踏んでいた。
点滴を打ったとき、血流を通して液体が体を廻っていくように。範馬刃牙という人間は、私や他の格闘者のような人間に空気のように満たされる。


「何回目でしたっけ」
「覚えてて欲しかったのかい」
「やだな…。」
自嘲したように微笑みながら首を振る刃牙君は、やはり高校生という社会的身分と似つかない顔をしていた。当然だ。そこらの普通と比べるには、彼はあまりにも異質だ。

ピロートークというには、あんまりに冷めている。それでもセックスしたあとにお互い寝もしないでこうやって時間を潰すように話すことは、なんとなくどちらが言わずともルーチンになっていた。彼の声帯は、夜にこそ映える。

初めて行為をしたときよりも、彼はずいぶん柔軟になった。空気の吸い方を覚えたみたいな軽さは、ある種私が彼と体を繋げる理由にもなった。

「心配になるよ、君が」

濡れた酸素を隠滅するように開けた窓から入ってくる夜の風が涼しい。刃牙君は何も言わずこちらを見ている。

「今君に一番近いのは私だけれど、君を攫ってしまったほうが、あるいは全員幸せになれるのかもしれない」

確信だった。不似合いなものを取り除いてしまいたくなるのは、医者という本質にある私のエゴなのかもしれない。

「そうかな…。」

顎に手を当てて、少し考えている。そうだよ、とは言えなかった。強制するものではないからだ。
「紅葉さんが俺を攫ったって、俺が逃げ出しちゃうかも」

「はは、違いない」
彼の性格を考えると、それが一番自然だ。彼は誰より自分の宿命を自覚している。彼と私の戦闘能力がもはや追いつかないほどに差が開いているのは、私にだってわかっていて、彼に本気で抵抗されたら、悔しいが私が私を押し通すことは難しいだろう。
それでも、大人という立場の私が彼を安寧たらしめたいのは、はたして大義か贔屓なのか、その答えが出ないのはまだ自分に失望したくないからだった。

彼が世界で一番美しく光を放つのは、世界からの被支配においても徹底される向上精神によるものだ。彼の戦闘の強さは、すなわち彼の心の強さそれ自体であることに他ならない。

「感服するよ、君に」

労るような目線を送ると、刃牙君は観念したように微笑みながら首を振った。
「あなたが…、鎬さんじゃなくてもいいんだけど…誰か他の人が俺だったら、また変わっていたのかな」

刃牙君の瞳は夜を見つめている。鎬さん、と呼んだ口調は滑らかだった。朝がもうすぐそこまで来ているのに、私たちは未だにこの静かな夜にしがみついている。事実だ。お互い生身の人間であることがどうしようもなく虚しい。朝の白く明るい空気に慣れた体は、それでも群青の酸素を求めて彷徨う。

「君が君なのは君自身の強さだ」
少し理想論すぎるかな、と息をつくと刃牙君は照れくさそうに、困ったように微笑んだ。

健やかに寝息をつく刃牙君は穏やかで、その時だけは年に見合った少年であるように感じられた。まだ幼さの残る顔と鍛錬されて精巧に特化した肉体は不釣り合いだけれど、そんなところも何だか愛おしくて閉じられた瞼に唇を落とした。
唇にしないのは彼の恋人へのせめてもの祝福だ。

服を着てしまうと私達は元の関係へと戻る。私達はただの対戦者で、そうでないならただの他人で、その薄さは知人と言っても不自然ではない。ただそれにしてはお互いのことを理解しすぎていて、知り合った時間と密度は不自然なほど乖離している。
彼と同じ道を歩むことも、彼の前に立つことも、もう私には出来ないが。それでも彼の未来がどうか明るくあってほしいと、薄暗い体で願った。





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