朔の星芒


新月の晩。酒でも飲まないかと、小宇宙で誘われた。フドウからだった。人馬宮から同様に小宇宙を用いて構わないと返すと、ならば処女宮にて待っていると軽く告げられ、手土産に軽くつまめそうなものを一つ二つ持って長い石段を降り始めた。
肌を撫でる夜風の侘しさは、十二宮のひとけの無さのせいのあるのかもしれない。光牙がこれを登ったときは十二全ての宮に黄金聖闘士がいたらしいが、その大半も実際に会うことはなく俺が人馬宮に戻ってきた頃には半数以上が戦いによって既に命を散らしていた。ふともう久しく活気のある十二宮を見ていないことに気がついて、これ以上思い出すと寂しくなるからそこで考えるのはやめた。やがて漂ってくる花の匂いと共に、処女宮に着いた。

フドウは宮の外にいて、星だけが輝く空を静かに眺めていた。聖衣を身につけていない姿は初めて見たので、多少目に新鮮に映る。赤土色の布を袈裟のように纏っていた。そういえば自分も射手座の黄金聖衣の無い状態で彼に姿を見せるのは初めてだった。
いつからこちらに気がついていたのか、フドウは滑らかにこちらに目を配ると、しなやかな所作で奥の居住区のほうへ案内した。歩きながら、先代の乙女座も掴めない男なのを思い出して、彼の後継がこの男なのも少し可笑しく感じた。

居住区は物の少ない、綺麗に行き届いた部屋だった。整頓された物等や馴染みのない雰囲気からか、どことなく清潔な印象を感じる。間取りはほとんど同じであるはずなのに、やはり人の家だなと思った。促されるまま座っていると、奥からフドウが軽食と酒瓶を持ってきた。酒は案の定異国のもので、書いてある文字は知らない言語だった。
注がれたグラスをつい癖で少し掲げて、フドウが一瞬はたと動きを止めたのを見て自分も無意識だったことに気がついたが、俺が手を降ろす前にフドウも自分のグラスを合わせた。交わしたときに小さく涼やかな音が鳴った。ぎこちなさが少し照れくさい。
「乾杯」わかっているような顔でフドウが薄く微笑む。




「いきなり誘ったが…迷惑でしたか」

「いや…そんな事は無い。それに誘うことも誘われることもそんなに無いからな。嬉しいよ」

「貴方に気後れがあるのでしょうか」

「ううん…それもあるが、紫龍や瞬は聖域の外で中々会えないし、オレは聖域を離れられないからな。酒を飲む機会もそんなに無いし」

「しかし美味そうに飲みますね」

「だからこそ美味いからな」

グラスを揺らして氷を鳴らしながらくすくすと笑ってみせると、フドウも軽く笑う。文字こそ読めないものの酒の味は確かに美味くて、ただ度数はかなり強そうだった。

他愛のない話のなかで、机に並べられた少量のジャーキーやナッツ類を摘みながら、少しづつ互いに煽っていく。こんなに穏やかに酒を飲むのは初めてな気がして、でも相手がフドウだからだろうな、と思った。酔いが回ってきたかな、と自覚する頃には、酒瓶もだいぶ軽くなっていた。

「…強いんだな?」窺うように煽り見る。
俺ばかり飲んでいるような気もするけど、フドウだって俺とそう変わらない量は飲んでるはずだ。

「さあ。人と比べたことはありませんから…。星矢はもう、すこし赤いですね」

フドウのしなやかな指が確かめるように俺の頬を撫でた。骨ばった指が熱くなった肌にひんやりと感じる。

「オレばかり酔ってるみたいだ」

されたのと同じようにフドウの頬に触る。すこし薄暗い灯りの中で明るくないからわからないだけで、こいつもこいつなりに回ってきているのかもしれない。触れた頬は予想したよりほんのりと熱くて、もともとの肌色でわかりにくいがほんの少しだけ赤くなっている…ような、気もする。
フドウは、じっと身を委ねて俺が触れるのを受け入れていた。嫋やかな微笑みは触れられたがっているようにも見えて、まるででかい猫みたいだった。

「…。」

頬に触れる指を滑らせてはっきりとした輪郭をなぞりながら耳を撫でると、耳たぶだけひんやりと冷たかった。蓬髪を別けて金のピアスを手慰むように指先で揺らす。

「…。」

フドウがゆっくりと眼を開いた。紫と金のオッドアイが透かすようにこっちを見据える。

「急にオレを誘ったのは、何かあったからじゃないのか」

「…今夜は、月がありませんから」

「…」

「こんな日は、我が身に届く人々の悲しみがいっとう苦しい」

はたと思い出した。そういえば、目の前で人の形をしているといっても、フドウは神の化身だ。俺にはわからないが、不動明王の化現である彼も、アテナの化身である沙織さんと同じように地上に生きる人間の気持ちに敏感なのだろう。

その身に掛かる人々の辛さの痛みのためか、それともそれから生じる悲しさのためか、音もなくはらはらと溢れるフドウの涙を指で掬う。

「…酒はそのためか?」

「ええ」

「…どうしてオレを?」

「さあ…何故でしょう。…でも、似たものがあると感じたからかもしれません。貴方も時折、悲しそうな顔をするから」

「…オレのはただの独りよがりさ」

そう返すと、フドウは頷く代わりに薄く微笑んだ。口の形は美しく笑んでいるのに、俺には何だか悲しがっているように見えた。
あまり男に長く触れられるのも嫌かなと思い手を離そうとすると、俺の手がフドウから離れるより先に優しく褐色の肌に捕まえられた。

「…もう少し、触れていてくれませんか」

呟いた声音は静かで、夜風と調和するように穏やかだったが、何となく放っておけなかった。何だか、迷子の子供みたいに見えたから。

「…寝たら月もまた出る」
「…」
「お前が眠るまではついていてやるから」

我ながら幼子に言い聞かせるようだと思った。
広く清潔なベッドに横たわらせても、しばらくこちらを見ていたので、優しく頭を撫でて、瞼を閉じさせる。穏やかな星明かりが弱く緑青色の髪に映えていた。

「…先ほど貴方は独りよがりだと言いましたが、人の希望を翼にする貴方もまた、人々の悲しみを一身に背負っているのでしょう」

静かに、呟くように、フドウが俺の背越しに語りかけた。

「…」

「そんな貴方だからこそ、わたしは…」

言いかけられた言葉は、もったいぶるように、あるいはためらうようにそれきり途絶えた。
やがて続きの言葉の代わりに静かな寝息が聞こえてきて、解放された顔で眠るフドウの頬を優しく撫でる。


悲しみに泣けるのはその心の慈しみの表れだ。
「やはりオレとお前は違うよ」
閉じた瞼に静かに唇を落とす。差し込む仄かな星明かりの下で、穏やかな寝顔を見つめていた。






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