愛しく思った土曜日 「三十八度………」 ピピ、と電子音が鳴り響き体温計を睨み付ける。忌々しいことに無視できないほどに体温は高かった。確かに頬は紅潮して、咳が酷い。この様子じゃきっと扁桃腺は腫れている。 「大丈夫?」 アイチはそう声を掛けた。 風邪を引いたのはアイチではなく櫂の方だ。昨日のずぶ濡れで体を冷やしたらしい。 水族館を行く約束をしたと言うのにこれでは無理だ。櫂はアイチを気遣い「平気だ」と言うも、逆にアイチは「寝ていて」と今まででアイチが使用していたベッドに横になる。 「仕方ないよ、今日はゆっくり寝てて?」 なんか欲しいものある? そう聞かれるも思いつかない、今食事を摂ったとしても気分が悪くなるだけだろう。 アイチが微笑むたびに櫂の良心はちくりと痛む。本来ならばアイチが楽しみにしていた水族館に行っているはずなのだ。 アイチも詳しい看病を知らないからか少し焦っているように見えた。櫂はアイチに看病して欲しくはなかった。これによってアイチにまで風邪が感染してしまったら申し訳ないからだ。 今まで風邪を引いても看病してくれる人がいなかったからか人に看病してもらうと言う行為がどうも慣れない。 カーテンの隙間から見える空は昨日の大雨が嘘だったかのような快晴。太陽の光は容赦なく、部屋の中を照らしている。 次に目が覚めた時にはまず、視界に入ったのは薄暗い部屋の天井だった。この日ばかりはとアイチがベッドを空けた、元々自分のベッドなんだが。 カーテンから外を覗くと澄み切った空があり、少し赤く、それでいて暗くなっていた。時計を確認すると午後四時を回っていた。 少し身体を起こせば、頭が痛く、やけに頭が軽く安定しない。 「……アイチ?」 朦朧とする意識の中で出てきた単語はそれであった。部屋には自分一人で他には誰もいない。 いつもならば普通の筈なのにそれが異様に寂しく、もしくは虚しく思えてしまった。一度誰かと寝食を共にすればこうも気分と言うものは変わり果てるものなのだろうか。 「起きた?」 「あぁ……」 「何か食べる? お粥とかなら平気かな………何か食べないと」 「今はいらない……」 アイチは自分にとってだが先程よりも落ち着いていた気がした。そのアイチはドアから少し顔を出して気を伺ってくれていた。 櫂はアイチに「治った」と言って安心させたかったが風邪には勝てず、身体を起こすことさえ叶わない。 アイチは櫂のベッドの脇に腰を下ろして濡れたタオルを櫂の額に掛ける。生憎櫂の家には氷枕は無い、それ故にアイチが知恵を絞りに絞った考えがこれなのだろう。 嫌いではなかった。 昔もこういった看病をされたような思い出もあり、より一層何か自分の中で懐かしさが生まれる。 「じゃあ、なんかあったら言って? 櫂君、僕居たら眠れないかもしれないから……」 アイチがそう言って立ち去ろうとした。何となくそれが嫌だった、風邪になると心細くなると言うがこの事なのかもしれない。 気付けば櫂はアイチの腕を掴み、引き止めていた。咄嗟の行動だった為か両者とも思考が追い付いていないような驚いた顔で見つめあっていた。 「櫂君?」 「今は居てくれ……」 ぽつりとそう櫂が呟けばアイチはそれに了承したようにゆっくりとまた同じ場所に腰を下ろして櫂の手を握った。その手は酷く温かかった。 また一滴、額から滴る汗をかけばアイチは乾いたタオルで優しく拭った。櫂は憧れていたのかもしれない、誰かに看病してもらうと言うことに、こうして何も言わず傍に居てくれることに。 「櫂君、寝ていいよ」 僕はここにいるから。 その囁きと共に重い瞼をゆっくりと閉じる。手はいつまでも温かった。 次に櫂が起きたのは朝だった。 あれから日付が変わってしまっていたらしく、部屋にはひんやりと冷気が立ちこめていた。 起き上がってみれば、乾いてしまったタオルが額から落ちる。そして自分の着ているシャツが汗塗れになっていた。 傍らにはアイチがいた、櫂のベッドに突っ伏すような姿勢で彼は眠りについている。朝日に当たった青髪を撫でる、アイチはそれでさえも起きないらしく、ただ規則正しい寝息を立てていた。 「………すまなかった」 ありがとう、そう言ってやりたいがそれこそ恥ずかしいことである。感謝を伝える代わりに彼は柔らかな謝罪をする。 どちらにしろ眠りにつくアイチには聞こえない。それでも良かった、アイチを抱えて布団に寝かせる。 顔を近付けるも、櫂はキスはしなかった。 |