我妻善逸という名


【ぜんいつ】
そう呼ばれるようになったのはいつ頃からだっただろうか。
物心ついた頃には、俺は一人だった。
ひもじくて、寒くて、とにかく生きるのに必死だった。
道交う人達を身体を小さくしながら眺めるのが日課だった。

そして、この耳に入ってくる音さえ、制御できなくて。
ただただ塞いでいたかった。

だけどある日、目の前で問題が起きた。
身なりの良いお爺さんと、その付き人らしき人、そして他にも何人かの人がもめている。
その中で目立つ散切り頭の人は声を荒げていた。
「信じてくださいよ、ご主人! 俺は盗んでなんていねぇっ!」って。

叫ぶ男に主人と思われる年老いた男の人はどうしたものかと頸を傾げていた。

「弥吉……、本当か? わしとて信じたくない。だが……」
「だって俺はお嬢さんの許嫁ですっ。そんなことするわけがないでしょう!?」

弥吉と呼ばれた男は必死になって主人に懇願する。
主人に信じてもらいたい、そういう想いと反対にざらつくような気持ちの悪い音がした。

「じゃあ、一体誰が店の売り上げを盗んだんだ……? 昨晩、最後までいたのは弥吉だろう?」
「八三郎だ。昨晩、俺はあいつに呼ばれて店を出た。んで、酒を飲んで、朝起きたら売上金が無くなってたんだ。だから、きっとあいつが盗んで……ッ!」
「……、その人、嘘ついてる」

気がついたら口が動いていた。
突然道ばたの汚らしい孤児が、裕福そうな人達の会話に入ったんだ。

そいつらは驚いたように俺を見る。

「……、はっ、何言ってんだこの餓鬼……」

青ざめながら弥吉は俺を見るけど、俺は逆に不思議だった。
なんで嘘をつくのかって。

「その人の袂の裏から、お金の音がする。それもたくさん」

俺がそう言うと周囲の大人が弥吉を囲み、その袂を引っ張った。
その勢いで着物が破れ、袖がひっくり返される。

出てきたのは大量の一圓札とまだ出回って間もない一圓銭だった。

「お前……ッ、この金はなんだ!?」
「ひっ、あ、これは……ッ、その……ッ!」

男達が弥吉を責め立てる。
その中で未だに驚いた顔をしたお爺さんが、ようやく我に返って俺の方へ近寄ってきた。

今まで大人がここまで距離を詰めてきたことは無い。
汚いモノを見るかのような目で、蔑んだ言葉を投げかけるくらいで。
俺は余計なことをしたのかもとしれないと思って目を伏せる。

「おぬし、名前は?」
「ぜん……いつ……」
「どういう字を書くんじゃ?」
「……、わからない。俺、孤児だから……。字、書けないし読めない……」
「……ふむ」

短いあごひげを撫でてお爺さんは首を傾げた。
そして、すぐににこりと笑った。

「お前さん、わしの子にならんか?」
「え……?」
「弥吉の嘘を見抜くほどの観察力。捨てがたい。それに、危うく店の売り上げが盗られるところじゃったんじゃ。お前は、この我妻の恩人よっ! 今日から我妻善逸と名乗れ!」

快活に笑うそのお爺さんの顔を未だに覚えている。
お爺さんには息子が一人いるけど、勝手に出て行ってしまって跡取りを探していたそうだ。
奥さんはとうに亡くなってて……。
そんな中で使用人に騙されそうになったお礼というだけで、こんな小汚い俺を養子縁組してくれて。
記憶も遠くなるほどの昔だったけど、俺を【人】にしてくれたのはこの人だったんだ。



だけど、それさえも僅かの間だった。

お爺さんが突然の病で倒れて、亡くなった。
そして、それと同時に周囲からの俺への当たりが強くなった。

『先代が連れてきたあの孤児が次の旦那になるのか? 嘘だろう?』
『ああ、どことも知らぬ餓鬼にそんな有り得ない』

孤児だった俺に大店だった我妻の家を取られたくないとしたあの人達の気持ちは分かる。
それも俺よりもずっと前からあのお爺さんに付き従ってた人達だもん。
ぽっと出てきた俺を旦那として迎え入れるなんて難しいに決まってる。

そして、最初は優しかった人達も少しずつ俺を煙たがるようになった。
それに……。うん。
あの時は俺も小さかったからなぁ。
良いも悪いも分からなくて。
よかれと思って耳に届いたことを全部話したりしちゃって……。

『あの子なんだか気味が悪いのよ。寝ていたはずなのに、その時に話していたこと知ってたりして……』
『そうそう! 思っていたことを当ててきたりしてさぁっ!』
『え、お前もかよっ!? 実は、俺もさぁ……――』

当たり前だ。
普通はそうなんだよ。
この耳の良さが原因。そして、それを口にすることが良いことだと思ってしまった純粋な俺が悪い。

ほーんと純粋だったんだよ。
あの時は、本当に……。本当に……。
困ってるって思ったから、口にした。
良いことだと思ったから、先回りして行動したりした。

それが、普通の人から見たら、気味が悪いただの餓鬼だ。

善を逸り、善を逸れた。
だから、俺は【善逸】なんだ。

そして、本当の跡継ぎが見つかり帰ってくるなり、俺はその家を追い出された。











一人に、なった。









お爺さんと過ごしたのは三ヶ月もなかった。
だけど、お爺さんは本当に俺を息子のようにかわいがってくれた。
跡継ぎにするべく、字の書き方や読み方を教えてくれた。

なのにあの家に拾われて、一年も経たず、また一人になったんだ。

温かさを知ってしまった。
優しさを知ってしまった。
家族を、知ってしまった。

「……ッ、う、うぇ……ぁ……、ウァアアアアッ!!」

追い出されて、俺は泣いて、泣いて泣いて泣いて。
声がかれるまで叫んで。


悲しい。
寂しい。
辛い。

誰か。
誰か……。
誰か……―――


そう願ったのは何度あったかな。
縁組したときにお爺さんに褒められたくて、必死に勉強したときのおかげで奉公に出るのは簡単だった。

今度は黙っていよう。
何が聞こえても、絶対に口にしない。

そうだ、家族が欲しいなら奥さんを見つければいいんだ。
優しい奥さんと、可愛い子供たちに囲まれて。
お父さんは困ってる人をたくさん助けて、子供達に尊敬されて。
そういう夢を持ち始めたのは十を超え始めた頃だった。

家族がほしくて、女の子に声をかけて。
そして気味悪がられて……。
それでも俺を好きだという子がいてくれた時は本当に嬉しかった。
俺にやっと本当に家族が出来るんだって思ったその矢先に、しっかり騙されて。
多額の借金を抱えそうになったところで、桑島慈悟郎……爺ちゃんと出会った。


爺ちゃんは厳しかった。
爺ちゃんは怖かった。

だけど、我妻のお爺さんみたいに……
ううん、それ以上に愛情を注いでくれた。
その音に間違いはなくて、強くて優しくて、俺を真っ直ぐに見てくれた。

すぐに殴るけど。

「善逸、お前の名前の字じゃが……」
「んー?」

爺ちゃんにボッコボコにされた身体にむち打って夕飯を作っていた時だった。

「善が逸れる、でしょう? あと逸る、だっけ? 俺も覚えてないんだけど、物心ついたときからそう名乗ってたんだよね。離縁はされたけど俺を縁組みした人がそういう漢字を付けてくれたんだ。優しい人だったけど、今思うととんでもない字を付けてくれたよねぇ。逃げるとか、飛び出す、とか本当に名は体を証するって言うかさ〜」

【逸】の字にあまり良い印象がなかった俺は、ため息交じりに呟いた。
背中を向けて話ながら畑で出来た大根を切っていると、爺ちゃんは考え込むように腕を組んだのが音で分かる。
そして俺の隣に立つと、ボフッと音が立つかのように勢いよく頭を撫でられた。

「本当に良き字を与えてもらえたのう?」
「はぁ?」
「【逸】という字はそれだけではない。抜きん出ているという意味もある。善逸、お前は確かに泣くし逃げ出すことも多い。じゃが、なんだかんだでわしの修行についてきておる。諦めず、ひたすらに努力しておる。他の型が使えずとも、壱ノ型であればお前の右に出るものはおらん」
「…………」
「それに、その良き耳で善かれと思うたことをしてきたのじゃろう? 抜きん出る才能を持ち、善を行う者。良い名じゃ」

俺の頭を撫でながら、爺ちゃんは深く頷いていた。
そして、それを聞いた俺もつい泣いてしまった。

「……ッ、爺ちゃぁあんっ!」
「師範と呼べぇっ!」

鼻水を垂らしながら泣いて爺ちゃんに抱き縋ったあの日、俺はこの名前が好きになった。

我妻のお爺さんが与えてくれたこの名前。
名前の漢字の意味。

それを爺ちゃんから教わった。

爺ちゃんは我妻のお爺さんに会ったことがないのに。
まるでそこに我妻のお爺さんがいるようで、俺は爺ちゃんにわんわん泣きついた。

























「おい、紋逸」
「俺は善逸だって言ってんだろうが、馬鹿猪!!」

頭猪に名前を間違えられて言い返すのも何度目だろうか。
大事な名前だからこそ、覚えていてほしいのにっ!

だから、伊之助が俺の名前を間違えずに呼べるようになったときは感動さえ覚えた。

それに、伊之助だけじゃない。

「善逸」

炭治郎が。

「善逸さん」

禰豆子ちゃんが。

名前を、読んでくれる。
俺を、呼んでくれる。



そして……―――




「ぜーんいつ?」

耳になじむ優しくて、そしてどこか凜とした音。
俺を呼ぶ声は少しだけと甘くて、柔らかい。

「もう、聞こえてるんでしょう?」

ちょっと拗ねて呆れたような声。
俺は目を開いて彼女を見つめる。

「ね、鈴」
「ん?」
「もう一回、名前呼んで?」

俺がそうねだると彼女は目を丸くするけど、すぐに困ったように笑った。

「なぁに? 善逸。どうしたの?」
「奥さんに名前を呼んでもらう幸せを噛みしめたいのです」

そう言うと鈴の音が変わった。
呆れが強くなるけど、照れくさそうにはにかんで、そしてその唇が音を紡ぐ。

「起きて、善逸。わたしの旦那様」

そう囁く彼女の声に、俺はだらしなく笑った。






俺は、我妻善逸。
抜きん出るほどに家族を欲し愛し、
そしてその家族を守るために悪鬼とならぬ者なり。


……――なぁんて、ね。

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