第三章
└九
そっと襖を開けると、さっきの男の人が静かに寝息を立てていた。
私は布団の脇に腰掛けると、彼の顔を覗き込む。
「………」
やっぱりというか、当然と言うか。
(…誰だかわからないなぁ)
長い黒髪や、スッと通った鼻筋。
あちこちに付いていた泥を綺麗に拭き取られた彼は、やっぱり普通の人に見える。
「…本当にモノノ怪なのかな…」
もし…
もし、そうだとしても、どうしても悪い人には思えない。
実際、心太くんだってすごく純粋でいい子だった。
(…まぁ正しくは精霊だったんだけど)
「…はーーー…」
彼は起きる様子がないのをいい事に、私は盛大に溜め息を吐いた。
ずっとシクシクと痛んでいた胸が、いまは風穴が開いたように寒い。
あの二人の事は考えたくないのに、思い浮かべては自分で自分を追い詰めてしまう。
(どうしてこんなに苦しいんだろう…)
思い出話が出来ないのがそんなに悔しいのか。
自分がこんなにも卑屈で僻みっぽい人間だなんて知らなかった。
「薬売りさんも呆れただろうな…」
きっと加世さんとも久しく会ったんだろう。
それなのに、私のせいで嫌な思いをさせてしまった。
「…………っ」
でも、あの部屋に横たわる加世さんを見て、どうしようもなく悲しかった。
いつもなら、私があの部屋に居たのに。
薬売りさんと私の部屋なのに。
そう思わなかったと言えば、嘘になる。
「…本当、卑屈っぽい」
こんな自分が泣きたくなるくらい、嫌だ。
「ん……」
「!」
私はハッとして、再び彼を覗き込んだ。
「あ…ここ…?」
彼はゆっくりと目を開けると、ぼんやりした眼差しで辺りを見回した。
「ここは私がお世話になっている宿屋です。気を失ってしまったので、ここに運んでもらいました」
私が答えると、彼の視線がこちらを向いた。
「あー…結…ありがとう…」
そう言って微笑む彼に、ゆるゆると首を振る。
すると彼は探るようにこちらに手を伸ばした。
(あ…そうか、鳥目…)
薄暗い部屋ではきっとよく見えていないんだろう。
「あの、何か取りますか?」
「いや、大丈夫…」
もう一度微笑むと、彼はそっと私の頬を撫でた。
「結の顔は、暗くてもわかるから…」
「あ……」
「結、もう泣かなくていいからな…俺が護ってやるから」
「…………」
――彼はモノノ怪かも知れないとか、どうして私を知っているのかとか。
いろんな事が頭を過ぎったけど。
(…なんでだろう…)
彼の眼差しは、どこか懐かしくて、温かくて…
私は何も聞けないまま、小さく頷いた。
フッと彼の手から力が抜けて、ぱたんっと布団に倒れた。
再び穏やかな顔をして眠りに落ちていったようだ。
(あ、まだ泥が付いてる)
顔に少しだけ残った泥を指先で拭うと、くすぐったそうに頬を動かした。
「ふふっ」
その様子がなんだか可愛らしい。
きっと、大事な友達だったのかもしれない。
彼が人間だろうと、モノノ怪だろうと、きっと関係ない。
「…思い出せなくて、ごめんね…」
私の呟きに、彼が少しだけ微笑んだ気がした。
(あは、笑ってる…?)
心地よく流れる空気に、いつしか私の瞼は重くなってしまい…
「…………」
私はそのまま意識を手放してしまった。
「………ん…」
――そして、私は不思議な夢を見た。
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