第三章
└六
「た…助け…」
その人はドロドロに汚れた手を、私に伸ばす。
「…はっ…!」
私は我に返って、その手を掴むと彼の体を抱き起こした。
顔に付いた泥を軽く拭うと、私と同じか少し上ぐらいだろうか?
特に怪しくもない、普通の男の人だ。
「だ、大丈夫ですか!?どこか具合でも…」
「あ…頭…ぶつけて…いててて…」
苦痛に顔を歪めながらも、彼は恥ずかしそうに笑った。
「俺、鳥目で…暗いところ苦手だから…」
「と、鳥目…??」
そして頷きながら、ゆっくりと目を開ける。
「ありがとなー、お嬢さ……」
そう言いかけてその人は、あんぐりと口を開けたまま固まってしまった。
「え、えーと??あの…どうかしましたか?」
しかし、彼は黙ったまま私をじーっと見ている。
(…うーん…もしかしてまた…)
一抹の不安がチラリとよぎる。
(モノノ怪…だったり…して?)
「結…!お前、結だろ!?」
「へっ?」
「間違いない!結だ…!!…よかった!!やっと会えた!!!」
彼は嬉しそうに笑い急に体を起こすと、その勢いのまま私にがばっと抱きついてきた。
「え、あ、ちょ…!」
(待って、何なのーーー!?)
急な展開に私の頭は着いていかない。
この人何で私の名前を知っているの!?
てゆーか、何で抱きつくの!?
「会いたかった…!ずっと探してたんだぞ!結!!」
私は我に返って彼を引きはがそうとしたけれど…
「あ、あの!!…えっ!?だ、大丈夫ですか!?」
「…ダメだ…くらくらする…」
彼は力無く呟くと、ぐったりと倒れ込んだ。
「え、ちょ…しっかりして下さい!!もしもーし!?」
私の呼び声虚しく、彼はすっかり私にもたれかかって気を失っていた。
――……
「う…重い…」
自分よりもかなり背の高い人を背負うのは、かなり困難だ。
(…気を失っている人ってこんなに重いものなのね…)
私はぬかるんだ道に足を取られないように、注意しながら一歩一歩進む。
相変わらず雨は降り続いて、私達を容赦なく濡らしていった。
――結局、あのまま気を失った彼を放っておくわけにも行かず…
「しょ…しょうがない…!」
私は彼を背負って扇屋に戻る事にしたのだ。
…正直言うと背負うと言うより、引き摺って…という方が正しいだろう。
(ご、ごめんなさい…)
初めて見たときよりも泥だらけになった彼の爪先を見て、ほんのり罪悪感…。
「うー、がん…ばれっ、私…!!」
段々力が入らなくなってきた手をグッと握りしめて、私は気合いを入れ直した。
その時。
「結ちゃん!?」
遠くから雨音に混じって聞き覚えのある声が聞こえる。
「き…絹江さん!」
私の返事を確認した絹江さんは、一目散に駆け寄ってきた。
「結ちゃん!いったい何処に行ってたの!心配したんだよ?」
今にも泣きそうな絹江さんの顔を見て、私もじんわりと涙が込み上げる。
「ご、ごめんなさ…」
言葉に詰まる私の頬を、絹江さんの温かい手が撫でていく。
「こんなに冷えて…さ、帰ろ……って、ぎゃあぁぁぁああ!!結ちゃん!何背負ってるの!?」
「えぇっ」
べしゃっ
「あああぁ!!??」
絹江さんの悲鳴に驚き、支えていた手を滑らせてしまった。
水たまりに落ちた彼を急いで抱き起こす。
「…結ちゃん、この人いったい…生きてるの?」
訝しげな眼差しで絹江さんが尋ねる。
「あ、ああぁ…ははは…」
私は絹江さんと顔を見合わせると、力なく笑った。
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