第六章
└一
― 一ノ幕 ―
空の色がだんだんと青く、濃くなってきた。
外では騒がしく鳴く蝉と、絹江さんの打ち水をする音。
「ふぁぁ…」
私は部屋で一人なのを良い事に、大きく欠伸をしていた。
仕事に出かけた薬売りさんは、当然のように私の同行に良い顔をせず…
「またお留守番ですか…?」
『…顔色が悪い』
「そんな…そこも具合悪くないですよ!」
食い下がる私を一瞥すると、ぷいっと顔を背けた。
『…だめです。早く戻るから、女将の手伝いでもしていなさい』
「…………」
『女将だってやっと大将の束縛から解禁されたんです。やることが山ほどあるでしょうよ』
薬売りさんは、そう言いながらかちゃかちゃと薬箱を整頓している。
(これは…食い下がっても無理そうだなぁ…)
そう思って小さく溜息を吐いていると、彼はふと手を止めて私を見た。
「…?」
『…もし…』
不意に向けられた真剣な瞳に、思わず息を呑む。
『もし…また紅い大きな犬だか狼だかを見たら、決して近寄らずにいる事。わかりましたか?』
「は、はい…」
…薬売りさんとのやり取りを思い出しながら、私はごろんと天井を仰いだ。
「はぁ……」
この前、紅い大きな犬を見たと言ってから、薬売りさんの過保護に拍車が掛かった。
理由はもちろんわからない…だって私が見たモノ自体、夢か現実かわからないんだから…
「きっと…何か理由があるんだよね…」
自分を納得させるように呟いてはみるものの…
前のように一緒に出歩かせてもらえないのは、ちょっと、いや中々の不満で。
薬売りさんの隣で色んなものを見るのが、自分で思っていたより大事な事になっている。
「…………」
窓から差し込む光を浴びながら、私は目をつぶった。
日差しが瞼の中を赤く染める。
薬売りさんに連れられてこの宿に来てから、もうどれくらい経っただろう。
相変わらず、薬売りさんに出会う前の事は思い出せずにいて。
(…欠片も思い出さないなんて、どうかしてるとしか…)
正体のわからないものは、考え込むとどうしようもない不安の材料になる。
靄がかかった様な頭痛の元を、私はいつからか意図的に頭のすみっこに追いやっていて。
もどかしく思いつつも、そのままでいいんじゃないかなんて甘い考えさえ芽生えてきていて。
(…こんなの良いわけないのに)
…理由はわかってる。
怖いんだ、ただ漠然と。
過去の記憶だけじゃない。
もう、今の私にはこの現状が心地よすぎて…
(…きっと…もう戻れない…)
記憶の問題だけじゃない。
彼を…薬売りさんを知る前に、戻る自信が無いんだ。
私の記憶が戻って、めでたしめでたしとなった時。
薬売りさんに背中を向けられたら、私はどうなるんだろう…?
「……っ」
自分の妄想に、背筋が寒くなった気がして、私は閉じていた瞼にさらに力をこめた。
知らないうちに詰めてしまっていた息を、ゆっくりと吐き出す。
(私…薬売りさんと離れたくないから、思い出すのを無意識に拒否してる…?)
こんな私を知ったら、薬売りさんは何て言うだろう。
卑怯者と蔑むだろうか?
それとも、もう何も言う気も無くして黙って去ってしまう?
「……や、だ…」
思わず零れた独り言と、つんとする鼻の奥。
目尻から溢れそうな涙をこらえるために、両手で顔を覆ったとき。
「結ちゃーん!」
外の通りから絹江さんの声が響いた。
「結ちゃん、ちょっと降りておいでー」
急いで立ち上がって、窓から下を覗く。
入り口の前で打ち水をしていた絹江さんが、柄杓を手にしたまま笑って手招きしていた。
「す、すぐ行きます…!」
私は遣る瀬無い寂しさを紛らわすように笑顔を見せると、目元をぐっと拭って階段を駆け下りた。
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