「影、また来たのか…。」

ため息混じりに呟かれた言葉が夕闇の深まる教室に一つ転がり落ちる。
机に広げられた本の頁に注がれていたノアールの紫色の眼差しが、部屋の角の一際陰が深い場所に向けられ、微かに眇められた。
視線の先には一匹の猫が潜んでいる。正確には猫ではない。闇より深い黒の体躯に、赤く輝く隻眼。
それは猫の形ばかり借りた影に潜む魔物だった。
在り方そのままに、ノアールはこの魔物を影と呼んでいる。

影は訪れて早々に見つけられてしまい、音無き声で一つ返事を寄越すと椅子に腰掛けていたノアールの足に擦り寄った。
足元の影に溶けて纏わり絡むように猫の形を崩しかけた影を、彼は呆れた表情でひょいと片手で救い上げて膝に乗せる。
赤い瞳を覗きながら指で喉を擽ってやると心地よさげに目を細めた。
猫が再び無音で訴えるように鳴く。

「何だ、餓えておるのか。」

猫の体から解け出し伸びた黒い触手で、ちろちろと彼の指先を摩る。そこには今は未だ、滴る赤い雫はない。
強請るような仕草が可愛らしく、ノアールは目元を和ませる。

少し前に、この学園で突然襲い掛って来て喰らおうとしてきた、この魔物。
攻撃を適当にいなして意思の疎通を試みれば思いもよらず応えてきた。
人の奥深くに巣食う存在でありながらもとある人間に心を寄せ、宿主の血肉と魂を貪る代わりに体液を啜ることにしたという。有るか無いかの意思で本来の摂理を曲げている面白い生態をしていた。
そんな影に興味を惹かれ、戯れ半分に血液を分けてやって以来、魔物は凶暴性を潜ませ妙に懐き、度々彼のもとに訪れるようになっていた。
擦り寄るのは主に糧のためであるが、ノアールはこの影を面白がり可愛がっている。

出会う度に血液を求められるので、この魔物はいつも腹を空かせているような印象を持つ。
恐らくは宿主である猫市が体調不良などで精気不足なのだろう。
魔物が言うには条件が整わないと自由に動くことは難しく、しかも叱られるので頻繁に人間を食らうわけにもいかないという。

空腹に耐えかねて本物の猫のようなしなのある媚びた仕草をするまでとなったこの影の魔物に、一抹の哀れみと愛しさをノアールは感じる。

囚われたのは宿主か、魔物か。
欠片でも心を持つと、世界から制約を受けて甘く渋い苦労をする。

「影、貴様の行末には興味がある。…血を分けてやろう。」

ノアールは一頻り影を観察すると、筆箱からナイフを取り出して、自ら人差し指の先を軽く切り裂く。
プツリと切れてそこから盛り上がった紅い球を、黒い触手が素早く絡めとった。
嬉しそうに掬っていく。赤から黒へ。滲むようにあっという間に吸い込まれて消えてゆく。

教室が完全に薄闇に包まれた頃、ノアールは一向に満足しない影を見下ろし言った。

「もう、良かろう。」

そう一声かけても、影は触手で指先を絡めとって離さない。
こくりこくり、と嚥下する音が聞こえそうなほどに、影はノアールの血液を貪り、切り裂いた肉の亀裂を押し分けてぞろりと撫でる。傷の内側をも舐め、その雫を啜りとっていく。

傷からの侵食をうけて、ノアールは少しだけ顔を顰めた。
痛みは無いが少しでも異物が内側に入ってくる感覚は、正直気持ちが悪い。

「こら、止さぬか」

少量であってもそこらの人間よりも格段に力を得られるこの血液は、影にとって甘露のようなものなのだろう。いや、味覚は存在しないようなので、エネルギーの塊か。
効率の良い食物に夢中になるのは理解できるが、あまり甘やかしてはならない。
赤子のように無心に吸い付く猫のかたちをした影の首根っこを掴みあげて、無理やり滴る紅い餌から引き剥がした。

「ならぬ、と言っている。提供者の言葉も聞けぬ賎陋なモノに我が血肉は分け与えられぬな。」

睨みながら脅かすと、影は未練を篭めて一声鳴き、おずおずと大人しく触手を引っ込める。
ノアールが机の上に下ろしてやると、別の触手がつるりと伸びて頬を撫で摩ってゆく。頬にかかった薄闇に解ける銀色の髪をさらさらと払い、離れていった。
これが影なりの、謝罪なのだろう。

「解ったのならば、良い。…初めに約束した通り、摂り過ぎてはならぬ。影であってもこの血液の虜にならぬ保証は何処にもない。」

強すぎる効力を持つ血は、良い効力ばかりではない。魅了し酔わせ、そのモノの本質を変えてしまうことさえある。
宿主と常に深くで繋がり、体液を糧とするという特性をもってしても、何がどう作用し、何が起こるかわからない。
まだ、影の全容が把握できず観察段階で興味は尽きない。
まだ、壊すには惜しい。

影は本当に理解しているのかしていないのか、赤い目を瞬かせて黒い尻尾を揺らす。
だいたい、影の考えていることは分かる。
本当は欲望のままにもっと飲みたいまるごと食べたい。しかし、それをしない。
本能と制約との間にあるその揺らぎが、ノアールにとっていじらしく可愛らしく映るのだった。

「ほら、今日の餌は終いだ。そろそろ行くがいい。宿主がもうじきに寝台から目を覚ますのであろう?」

指先をハンカチで拭いながら、ノアールは机の上にいる影に言う。
猫の姿のままの影は、滑らかな動作でノアールの膝の上に降り立つと、体を伸ばし、見下ろすノアールの鼻先にちぅっと口付けを施した。

「感謝の印、か。」

そのまま身を翻して床に降り立ち、そのまま暗闇に溶け込んだ影をノアールは微笑み見送った。




2012/06/01
ノアと影ちゃん。「猫型影ちゃんノアくんに鼻チュー」というリクエストから、餌やり風景。
……なんかデジャブっている。



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