「あっ。あなた」
人気の少ない廊下で呼び止められた彼女は緊張した面持ちで振り返る。
長身の彼はいつもの微笑を浮かべて自分を見下ろしている。会いたくて会いたくなかった先輩の四巡真澄さん。
一大決起してバレンタインにチョコレートを渡してからはどうにも気恥ずかしくて近寄ることすらしなかった、廊下ですれ違う時もずっと俯いていたのに。
「ああやっぱり、この前チョコくれた子ですよね。」
「は、はいっ」
「ホワイトデー前ですが。お返しに何かほしいもの、ありますか?」
四巡は胸を撫で下ろす。チョコを貰ったはいいものの名前も学年も組みすらも分からなかった彼女。
尋ねる前にぴゃっと逃げてしまったその子を偶然ここで捕まえられたのは助かった。
「えー、えっと…」
「俺に用意できるものなら、遠慮しないで言って下さい。」
にこやかな彼の笑顔に押されて、彼女は一歩後退りした。とん、と背が壁に触れる。「あ、壁ドンだ」とかよぎるがそれどころではない。
お返事、聞かれてるんだ、答えなきゃ。
必死に頭を巡らせるが、何が欲しいって言われても急にそんなのそんなの。
あの日逃げてしまった後に自分が名乗っていないし同じ保健委員なのに彼の記憶の片隅にもなかった事に随分落ちおこんで、反応は全然期待してなかったのだ。
耳まで赤くして黙ってしまった彼女を四巡は心配そうに覗きこむ。
無難にクッキーが欲しいとでも言えばいいんだ、と答えようとして顔を上げた彼女は至近距離で四巡と顔を合わせてしまった。
一瞬にして思考が真っ白になった彼女は変な悲鳴を上げて、とっさに口走った。
「じゃ、じゃあ、あの、キスして下さいっ」
「え。」
予想外の返答に四巡は困ったような表情をつくった。
聞き間違えじゃなければキスしてくれと言ったか?
「ひゃ、私何言って!そのっ、もちろん嫌なら結構ですし、深い意味はなくて、お返しで、あああっ彼女になろうとかそんなんじゃなくってえと、えと、えっと!!」
慌てふためく彼女がすごく面白い。大混乱だ。そんなにびっくりしなくても言い訳しなくてもいいのに。
この分だと立ち位置を調節して彼女を壁際に追い詰めておいてよかった。また逃げられるところだ。
「……嫌ではないですが、」
四巡は、また、そっと距離を詰めて彼女の頬に触れる。上気した肌はしっとりとしていて、フリではなく本当に焦っているのだと分かる。
こんな初心そうな子だ、男性に触れるという経験をしたことはないだろうに、いきなりキス。しかも俺に。
「あなたはお返しがそれで本当に良いんですか?」
彼女が言い出したこととはいえ、本当の本当に手を出していいのだろうか。
あとから後悔されて殴られるとかいう展開はできれば御免願いたいところだ。
四巡の確認に、彼女は必死に頷いた。
「は、はいっ」
涙目になりながら裏返った声で返事をする。
上目遣いで四巡を見上げるその仕草にはなかなか可愛いくて小動物のような愛嬌がある。
悪戯心が沸き上がって、四巡は顔を近づけて彼女の耳元で囁いた。
「…なんなら、今…しますか?」
「ダメですダメですダメです!!心の準備!!!が!!!」
ぶんぶんと首を横に振って四巡の肩を掴んで引き剥がそうとする小さな抵抗。
あまりいじめ過ぎてもダメか、と四巡は体を引いて彼女と他人の距離へと戻った。
半泣きになってぷるぷるしている彼女にもう何もしないと両手を上げてアピールし、踵を返す。
「じゃ、ホワイトデーの放課後に。チョコを渡してくれたあの場所で待ってますね。」
バイバイと手を振って去る彼の背後で、彼女は顔を真赤にしたまま呆然と見送り、ずるりと力が抜けたように床に座り込んだ。
2013/03/06
純情を弄びます。