隻眼の黒猫が生徒たちの足元の影の部分を縫うようにして走り抜けてゆく。
ほとんどの生徒の目にはその姿は留まらない。あるいは気にしていないのだろう、この学園では猫が廊下を歩くのは別段珍しい風景ではなかった。

黒い猫はある教室の扉をするりとくぐった。
一直線に目指すのは黒い水平服を着た怜悧な男のもとだ。
窓際の席で外を眺めていた彼は駆け寄る存在に気が付き表情を緩めた。

「久しいな」

声をかけられた猫は床を蹴って跳ね上がり彼の膝の上に収まる。まるで本物の猫のように体を擦り寄せる。
ノアールは猫の形をしたものを撫でる。
この猫の正体はある少女に巣食う魔物だ。猫の姿は擬態であるが、その毛艶がかつて目にした折よりも良くなっている事に彼は気がついて紫色の瞳を瞬かせた。

「猫市に良い人でもできたのか」

猫は答えず尻尾をふるのみである。
影にとっては餌が増えるならそれが何者で主である猫市の体に害を加えなければどんなものであろうと良いのだろう。
しかし。と、ノアールは一瞬だけ逡巡する。

つやつやしている影を抱え上げて隣の教室へと歩みを進めた。
そうして、自分の席で何かを描いている猫市に背後から声をかける。

「猫市、時間は空いておるか。」

「んわああっ」

猫市は机の上に広げられていた原稿を慌てて片付ける。
ノアールは特に関心を持っていなかったので、何が描かれていようと何も言うつもりはなかったのだが。わたわたとしている猫市は面白かった。
ノアールはその間に手短な椅子を引き寄せて腰を下ろし、影を膝の上へ載せた。
くるりと丸くなる黒い猫。

「え…っと、ノアくん。影ちゃん連れてきてくれたの?」

「久しぶりに影が我の元に訪れたのでな、それも、嬉しそうに。その事について話があるのだ。」

「何かな。」

「宍戸騎士と交際していると聞いた。」

「あぅ、すごい直球だね…。」

「その関係は猫市の意志か。」

何を言うのだろうとノアールの顔を猫市は見た。
鋭い紫色の視線は猫市の瞳を覗いている。奥底にあるものを一つも見逃さないというように真っ直ぐと。

休み時間特有の周囲のざわついた音がかき消えたことに、猫市は気が付かない。

心の中まで見透かされそうな視線に少し居心地が悪くなって猫市はノアールから目を逸らした。

「影がいなければ、あれを選んだか。」

ノアールは重ねて問う。

「それは……」

どうだろう。
こんな関係には、なっていなかったかもしれない、と猫市は素直に思う。

半ば無理矢理に迫ってきた彼は、恐怖の対象になっていた、かもしれない。
影がいるおかげであんな風に衝動のままに関係を迫られても、むしろ彼との情事の跡は影の養分になるので好都合だ。

……けれど、そういう馴れ初めをノアくんに話すのは。

猫市は頬を染めて慌てたように首を振り、ノアールに問い返す。


「なんで、そんなこと訊くの?」

「猫市と影の関係の観察の一環であるが…。そうだな友人としての忠告の要素も含む。」

ノアは膝の上の猫に擬態した影を撫でる。
…この異形と少女の行方を案じて。


「猫市。影の餌としてあの男を見、関係を結んだのではあるまいか。」

咄嗟に答えられずに、詰まった。
猫市は足元に視線を落としそうになって慌てて首を横に振る。否定しないと。

「違うよ」

すくなくとも、今は、あの体温が、乱暴な中にあるくすぐったいような優しさが、忘れられない。
「影ちゃんの食事のためにこうするんだ」と思った、けど、それだけが全部じゃない。

ノアールは戸惑う猫市の頭を、ぽん、と撫でた。

「…共生し、半ば肉体をも共有する影と猫市はたちには、致し方ないとはいえ思考に癒着と干渉がみられるのだ。故に、言っておかねばならぬ。影の意思に引き摺られてはおらぬか、と。」

「のあ、くん。」

あの男の性格からして、まっすぐに思いを打ち明け真っ当に恋愛した末の行為とは想像しがたく、裏付けるように影の飢えは十分に満たされている。

たとえば。
あれに乱暴され、痛む心の防衛機制として影を用いるなら、いつかは覚悟をしておかねばならない。
影の存在を猫市がそのように利用していることを自覚せねばならない。


「もしも、餌として見て関係を結んだのならば、以後、時を経るごとに人間を餌としか見れなくなるであろう。家畜に対し名をつけぬように、個を見出さなくなり、モノとして、唯の栄養源として、味や見た目でしか興味を示さぬ、やがて人を食らう人外へ成り果てる。」

それは人であろうと思うなら、人として生きるというなら、とても辛いことだ、とノアールは続けた。

「自ら進んで人間の枠から離れれば残るのは、孤独のみ。猫市の場合、影と二人きりになるか。しかし……」

人は独りで生きられぬ。
孤独、もしくは情愛の枯渇は人格を歪めるに至る毒。そして、毒に侵されれば何かが狂う。

先に述べたように、ヒトを人と思わぬようになるかもしれない。

あるいは、そばにあるものをけっして離さぬように縋りつき、なまじ力があるため傷つけるものを全て排除するかもしれない。
それに乗じて甘い言葉で、ふたりきりの世界を築きあげれば、影にとって望むところ。


共存は依存へ、そして共生は寄生へと変わる過程が、見える。


「精神の境界は失われ、力関係で言うなれば間違いなく御する術を持たない猫市が影へ取り込まれるであろうな。…猫市を食らうことは、影の目的である。これまでにも身に覚えはある筈。意識を失えばその肉体を影に奪われることからどのような結末を迎えるかは、明白。」


人を食らう異形は、どれだけ人を学ぼうと、ともにありたいと願おうと、人間を食らう本質からは逃れ得ぬ。

か弱い少女は、切に異形とありたいと願おうと、ヒトが持ちうる強大な力に対する"弱さ"を自覚せぬことには、かのものと長く一緒にはいられない。


「個を失わず生きるとは?失ってしまえば簡単に飲まれるであろうよ。」


猫市でありながら、そうでないものにならないために。
ノアールはそれを言い切り、猫市の頭から手を離した。


「…これは個人的な場所へ踏み込んだ話。恋愛の機微は不可思議ゆえ、杞憂なのやもしれぬ。所謂、お節介というものだ。一考に価しないのであればすぐに忘れても構わぬ。」


その気持も、感情も、彼女だけのもの。
ノアールは仕草や言葉からそれらを掠めとっても、指摘することはない。

何者にも触れ得ず影にも犯せない、自覚した感情であるならば心配はいらない。


「長く、余計なことまで話してしまったな。つまるところ、今やるべきはひとつだけ。その感情は、影から齎されるものではないか?と、よく己の内心を見極めることだ。」


話は終わりだ、とばかりに、ノアールは身を引いた。

ざわざわと周囲の音が戻ってくる。
長く話していた気がするのに、何事もなかったように休み時間は続行中でいつも通りに賑やかだ。

猫市はいつの間にか影を見つめていた顔をあげる。

心に一つだけ浮かんだこと。
この答えは、ノアくんにとって正解じゃないかもしれない。
でも――…

「あのね…。もしも、影ちゃんがいなかったら騎士くんとこうはならなかった。でも、影ちゃんがいるおかげで、騎士くんとこうしていられるの。」

猫市が語る思いを、ノアールは聞く。

「もしかしたら絶対に手に入らなかった幸せかもしれない。…どうなるのか、まだわからない。でも、こうなったこと、大切にしたいよ。」


そう言い切った猫市の真っ直ぐな目をみて、ノアールは頷いた。

「それが猫市の答えならば、それでよい。お前たちの紡ぐ未来はどのようなものか?願わくば、良い物であることを祈っておる」


ではな、と猫市に影を受け渡して席を立った。
踵を返し、ひらりと手が振られた。





2012/11/05
リクエスト消化。

ちょっと何言ってるのかわからないです!

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