カルラは病院に来ていた。
看護師に案内されて、進んでいく。たどり着いた先は鏡藍先生の病室だった。

先日保健室での事件。
自身の流した血だまりの中に倒れていた鏡藍先生は、意識が戻らずにいる。
正直、死んでいてもおかしくなかった。こうして命があるのは幸運以外のなにものでもない。

あの時の記憶は、あまりはっきりしない。
皇先生に会って、捕まって、それから何か薬を嗅がされたのだろう。
カルラが目を覚ました時には、慣れ親しんだ保健室はむちゃくちゃだった。
誰かの輪切り、滴る血、壊れかけのベッド、破壊された入り口とその瓦礫。
血だまりに沈む鏡藍先生を見てから、カルラは普通ではいられなかった。血が、たくさん出ていて、それで……
落ち着くのには時間がかかった。

なんで、どうして彼が、そんな思いばかりが溢れてあれから何度も泣いた。
そうしている内に思ったのだ。
意識を失った後、何故無事でいられたのか?と。

…きっとたぶん、鏡藍先生があの男の凶行を止めてくれたのだろう。

増永さんによれば、一番初めに倒れていたのは先生だということだった。
彼女が惨状を見捨てなかったおかげで私も彼もかろうじて生きているが、鏡藍先生の傷は大きく血を失いすぎていた。危ない状況は続いている。

それを聞いていて、いてもたってもいられなかった。

誰に頼めばいいのか分からなくて担任の猫先生に泣きついた。
そうしていろんな人にひどく無理を言って、ここへ来ることができた。
本来なら家族以外の面会はできないが、最終的に、事件の当事者だったということで特別に見舞いに行く許可が下りたのだった。

好きな人の傷ついた痛々しい姿は見たくない。
死んでしまうかも知れないという現実に直面するのは怖い。

けれど一目会いたい。

会って、それで。どうするの。
何もできない。
何も。

それでも、ここに来ることを願ったのはカルラ自身だった。
震える手で病室の扉を開ける。床が柔らかく感じて一歩一歩がひどくゆっくりだ。
そして、ベッドを囲むカーテンを引いた。

包帯を巻かれ沢山の機械に繋がれた意識の戻らない彼を前にして、ただカルラは俯き立ち尽くした。




どれくらいそうしていたか分からない。
不意に、ガタンというわざとらしい物音がした。

「いやあ、一命を取り留めたようで何よりです。ここの病院には、非常に腕の良い医師がいるようだ。それとも彼が強運なんでしょうかね」

その声にビクリと肩を跳ねさせてカルラは振り返った。
面会室の出入口を塞ぐようにして白衣を着た男が立っている。深い色のサングラスをかけており白衣の下は派手なカラーシャツだった。
その怪しげな風体は医者ではない。

カルラは嫌でも見覚えがある。
学園の外で接触してくるとは思わなかった。今、最も会いたくない人物。

「…どうしてここに」

化学教師の皇 考。鏡藍に大怪我を負わせた張本人。

いつから居たのか。
警戒する彼女を、サングラスの奥の瞳は面白げに観察していた。

「彼の見舞に…と言いたいところですが、今日はカルラさんに用があって来たんですよ。」

……聞いてはいけない。反射的にカルラはそう思った。
キッと顔を上げ皇のを睨み付ける。

「話すことなんでありませんし、貴方の顔もみたくないです。帰って下さい。」

「おやおや、嫌われたものですね」

恐怖に耐えながらそう言い切った彼女の虚勢に近い態度を皇が一笑に付して往なす。
カルラの握りしめられた拳がかすかに震えていた。一度あっけなく囚えられた恐怖は彼女に染み付いている。
今度こそ助けてくれる人は居ない。

ぶっきらぼうに会話を打ち切ろうとする彼女に穏やかに話しかけた。

「そう言わずに。カルラさんにとっても、そこで寝ている彼にとってもいい話なんですよ。」

彼、という言葉にカルラは反応を返した。皇はにぃ、と口の端を釣り上げる。
不可能だとしてもカルラは皇から徹底的に逃げ、無視するべきだった。反応を示した時点で彼女の負けは決まっている。場を支配する過負荷。


「一つ提案があります。私と手を組みませんか。」

「嫌です。」

カルラが答えるも、聞いていないかのように遮り、話を続ける。

「私はこちらの学園に赴任してきたばかりで何かと戸惑うこともあります。貴女が協力してくれるなら心強い。仕事も円滑に終わりそうです」

「何を馬鹿なことっ…」

大切な鏡藍先生を傷つけておいて。
憎しみが燃え上がる。
彼女の瞋恚を受けて、皇はわざとらしく肩をすくめた。

「知っていると思いますが、私を止めようとして彼はこうなったんですよ。意識のない貴女を守ろうとして抵抗したんです。」

自分は悪くはない、とでも言いたげだった。
あまりの言い様に頭が真っ白になる。

「っ…。」

鏡藍は皇を止めようとした。

そんな事は、知っている。


喉が震えて言い返そうとした言葉は飲み込まれた。

カルラは思う。
鏡藍先生は、きっと私でなくても助けに入っただろうと。

けれど、そこに居たのはカルラだった。だからこそ思ってしまう。

あのときこの男に捕まらなければ、捕まることが確定していたとしてもあの場所でなかったら。
私はひどい目にあって死んでいたかもしれないけれど、鏡藍先生はこんな怪我をしなくて済んだかもしれない。

鏡藍先生が怪我をしたのは「自分のせい」なのではないか。
そんな馬鹿げた悔恨。

「貴女を守ろうとして」という言葉が、そのまま「貴女のせいで」というように響く。

たまらなかった。
心に重くのしかかっていた闇を指摘され、視界がくらりと滲んだ。

「いや……」

言葉の刃が彼女の心に突き刺さってじわじわと侵食する。
胸を締め付ける。

動揺したカルラに畳み掛けるように、皇は優しく言った。

「……それに、此処は病院ですから、人が死んでも不自然ではないですねぇ?例えば、電子機器の故障、なんていかにもありそうですよね。」

ねっとりとした視線。
人の命を簡単に奪ってしまう、いや、奪ってきたその優しく冷酷な声音。

カルラの体にぞわり、と怖気が走った。
一歩後ずさる。

「取引を持ちかけているように聞こえましたか?貴女に選択肢はありませんよ。」

その言葉の意味するところは拒否をすれば自分も、鏡藍先生の命もないということか。

皇先生から、鏡藍先生を守らないと。
でも、どうやって?
体が強張る。足が震える。

「……彼に手を出さないでください、これ以上、何をするっていうんですか!」

半ば叫ぶように言ったカルラにニッコリと微笑む。

「ふふ、私に協力をしてくれるなら彼に手出しはしませんよ。」

「信用できません。」

「それと、もう一つ。実は、政府からの依頼で私は学園へ訪れたのですよ。国と少なからず繋がりがあります。こういう時に権力は便利ですよね。少し口添えすれば、最先端の治療を彼に施すことも可能です。」

飴と鞭だった。

これは嘘だ。
助けてくれる保証なんて一つもない。
罠だ。

頭の中で警鐘が鳴り響く。

彼の言葉は毒。
聞いてはいけない。
真に受けてはいけない。

そんな自分の心の声にカルラは耳を塞いだ。

差し出された選択肢は、彼を見捨てるか、自己犠牲を払って切り抜けるか。

……返答は決められている。イエスと言うしかない。


「さあ、どうです?気は変わりましたか」

逃道がはない。
助けもない。

当然、この手を取るだろうというように。
皇の手のひらは、握手を求めるようにカルラに差し出される。


(最初から力ない私には選ぶ余地など残されていない。)


カルラは悲痛な面持ちで、満身創痍でベッドに横たわる鏡藍を見る。

皇先生の手をとれば、軽蔑されるだろう。
もう鏡藍先生に二度と顔を合わせることなんてできない。
彼を助けるということを建前にして、私は自分の命の安全を選ぶのだ。

愚かだと笑われるだろう。
弱いからだと詰られるだろう。
他の道はなかったのかと一生後悔に苛まれるだろう。

それでも。
ここで、私の目の前で彼を殺させはしない。
命だけはどうか。

ゆっくりとカルラは皇に歩み寄った。
取り返しのつかない間違いの選択を強いられていることを自覚しながら。


カルラは歯を食いしばって差し出された皇の手を取る。
強く握られた手。ぐい、とそのまま引き寄せられる。
距離をつめれたカルラは「ひっ」と小さな悲鳴と一緒に息を飲んだ。

「い、や…っ」

胸を押す彼女の腕の力は弱い。抵抗は小さかった。
強く抵抗すればこの取引がなくなるとでも思っているのだろう。
震える彼女に威圧をかけて、命令をする。


「化物の所有者を私の目の前に連れて来なさい」

「……っ」


囁かれた言葉が、絶望一色でも。

私は私ができることをしなくちゃ――…

カルラはそのまま現実を拒むように、瞳をゆっくりと閉じる。
眦から涙がこぼれ落ち嗚咽した。





放課後、帰り支度をしている猫市にカルラは声をかけた。

「カルラちゃんどうしたの」

「あのね、相談があるの……聞いてくれる?」

数日暗い顔をしたまま酷く落ち込んでいたカルラを心配していた猫市は、それならばと話を聞くことにした。
教室では話しにくいというカルラに頷いて、猫市は鞄を置いて彼女の後を追いかける。

「どこ行くの?」

「あのね、猫市ちゃんに会わせたい人が、いるのよ」

廊下を支配する夕闇のせいか、猫市を見るカルラの瞳は深い黒色に染まっていた。








BAD END(?)

ある意味最小限の犠牲かもしれない。


※この文章はすめらぎさん作の「シャドウゲーム」のIFです




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