羽化するソプラノ
このひとが苦手だ、と明確に感じたのは産まれて初めてのこと。
私は小学生の時から金管楽器をやっていて、中学校でも吹奏楽部で活動していた。どうせなら大勢の前で吹く機会は多いほうがいいし、広い体育館や甲子園での演奏だってしてみたい。だから運動部の強い高校に進みたかった。たまたま通学県内の稲荷崎高校は運動部も吹奏楽部も有名だったので、私が志望校を決めるのは一瞬のことであった。
「サーブの時は特に注意すること」
初めてバレー部の応援に行くのが許された時、先輩にしつこく何度も言われたのを覚えている。
稲荷崎の選手がサーブを打つ時は、選手によって応援の仕方に決まりがある。選手の耳に届く音が乱れると、サーブの失敗に繋がる。集中力を奪う演奏は禁物だ。それは重々承知していたし、気を付けなければと意識していた。
が、なにせあんな空気の中で演奏するのはなかなか無いことだったので、私は緊張していたのだ。ひとりの選手がサーブを打つ際、本来ならばピタリと演奏を止めなければならなかった時に、私ひとりが失敗した。
そして、その時の彼のサーブは、相手コートに入らなかった。
同級生の宮侑くんはクラスメートだ。男子バレー部の宮兄弟といえばこの学校に知らない人はいない。当然のごとく人気者。そんな宮くんのサーブが失敗したのは私のせい。
しかし宮くんは、大勢いる吹奏楽部の誰が演奏を止めるのに失敗したのかは知らないだろう。だから試合後ジャージのファスナーを上げながら、私の聞こえる場所で思い切り舌打ちをした。
「誰やねん音漏らしたの。腹立つわ」
ぞわっとした。ああ、苦手だ、このひと。すごいのかもしれないけど苦手だ。クラスで顔を合わせたくない。もうバレー部の応援、行きたくない。また失敗するかもしれない。そのたびに宮くんのサーブが失敗し、それは私のせいだとされて彼を怒らせることになる。
その日は宮くんの不機嫌な声と表情が頭から離れなくて、なかなか寝付けなかった。
「来週もバレー部の応援あんで」
その翌日、部活中に言われた友人の言葉に絶句した。つい昨日インターハイ予選は終わったばかりなのに(しかも県大会優勝)、本戦を待たずして応援に行かなければならないなんて。
「れ、練習試合の応援も行くんや」
「当たり前やん! 去年もやったやん」
「そうやっけ……」
「すみれ、次は外さんようにイメトレしときや」
耳が痛い。吹奏楽部のメンバーは当然ながら、あの時に誰が失敗したのか把握していた。
去年も私は何度かバレー部の応援をしたけど、宮侑のようなパフォーマンスをする選手はいなかった。そりゃあ選手によって曲目が違ったり、ちょっとした決まりごとはあったけど。大きく盛り上がった時に一気に静まり返らせるような、そんな指揮者みたいな。コンクールでも演奏会でももちろん練習でも、指揮者を見ながらだったら上手く止められるのに。
となれば宮くんを指揮者だと思って演奏するしかない。次に失敗したら音楽室まで怒鳴り込んでくるかもしれない、あの苛つき方ならば有り得る。
数日後、私は宮兄弟のファンの子に声をかけ、試合の動画を送ってもらった。その動画を再生し、試合の緊張感を感じながら練習しようという作戦だ。
「指揮者やと思って……指揮者やと……」
宮くんらのうち、金髪の侑くんがサーブのターンになった時。私たちは応援団のリーダーではなく侑くんに集中する。
四歩、あるいはもっと、どうやら彼はその都度歩く長さが違う。そこも注意する必要があった。そして宮くんは片手にボールを持ち、もう片方の手を挙げる。彼が指揮者となる瞬間だ。
画面の中の宮くんはまた一段と小さいがそこはさすがファン、宮くんがサーブに入る時は拡大されていた。おかげで開かれた手がグッと握られる瞬間がよく見える。その拳と同時に私はピタリと演奏を止めた。が、画面からは別の音がちょっとだけ漏れた。
ああもう、あの試合の動画やん。私がミスってるやつやん。
「珍しいことしてるなぁ」
その時、私の身体は縮みあがった。持っている楽器が手から滑り落ちそうになり、一瞬にして言い訳を考えた。なんの言い訳って、私が何故宮くんの動画を持っているのかってこと。そして、何故それを見ながら練習しているのかってこと! というのも、知らぬ間に背後に居たのが宮侑本人だったからだ。
「……!」
「それっていちいち練習してるもんなんや」
「え、」
「サーブん時の」
宮くんは私の身体越しにスマホの画面を指さした。サーブを失敗したおかげでコートに戻る宮くんの姿が流れている。わざわざこんな方法で練習をする生徒なんていないだろう、少なくとも私は聞いたことがない。
「これはええと……皆はしてへんと思う、私が勝手に練習してるだけやから」
「うわー、吹部から見たら俺らこんな感じやねんな」
「……」
私の返事はあまり聞いていないらしく、宮くんは感心した様子で画面に近付いた。
そして、これがいつの動画であるのかを理解したのか、あるいは偶然思い出したのか、唇を尖らせながら言った。
「まあ練習してくれるんは助かるわ。これ狂うとめっちゃ困るねん」
「……やんね、」
「こないだも誰か知らんけどミスったやろ、……あー思い出したらムカついてきた」
怖い。やっぱり苦手だ。思ったことをそのまま口にするタイプのひと。
でも確かにあの時のサーブが失敗したのは私のせいだ。おかげで今もこんなに彼を怒らせている。後から思い出してまで精神状態に影響させてしまってる。
「……ごめん」
「あ?」
「あの……」
このまま犯人が誰なのかを黙っておけば、私の身は安全だ。だけど本人が目の前で悔やんでいるのに、隠しておくことは出来なかった。
「この前んとき、ミスったん私やねん」
白状すれば死刑を言い渡されるかもしれない、というほど恐ろしかったけど。もやもやしたまま他人事みたいに「せやな、集中力乱れるもんな」なんて話を合わせるのは無理。
びくびくしながら絞り出した声は、宮くんにかろうじて届いていたらしく。「えっ」と小さく呟くのが聞こえた。
「ごめんなさい」
頭を下げると宮くんの足元が見え、その足がびっくりして後ずさるのが見えた。そして宮くんからは先ほどの苛々した様子とは違い、慌てふためく声が。
「いや……あ、そうなん……? なんかゴメン」
「私のせいで失敗したやんね」
「そ、そういうワケちゃうで?」
「でも音狂うとめっちゃ困るって今、」
「いやそら困るけどやな!」
宮くんはこれまで自分が言ったことを否定するかのように手を振っていた。フォローするということは、やっぱりあの時外したのが私だとは知らなかったんだ。
「白石さんやとは思わんくて……あかん俺めっちゃ嫌なヤツやん」
とうとう自身の顔を手で覆い、そのままわしゃわしゃと前髪を上げたり下げたり意味のない行動を繰り返す。嫌味なことをしてしまった、と後悔しているようだ。確かに嫌だったけど。ひととおり髪をぐしゃぐしゃにしたあと、宮くんは指と指のあいだから目を覗かせた。
「……もしかして、前ああなかったからソコばっか練習してたん?」
「う……うん」
「どんなやねん」
「やって……」
そりゃあ、宮くんが怖かったから。怖かったし、そのせいで一点を失ってしまったから。これだけ吹奏楽部で色んな部活の応援をしているし、一点の重みくらいは理解しているつもりだ。
「あんとき私、緊張してもぉて……ほんまごめんな」
「ええって。試合は勝ったし」
「でも試合の後に舌打ちしとった」
「……せやった?」
「誰やねんミスった奴って怒っとった」
「うそやん」
「私、すぐ後ろで聞こえとった」
「やばいやつやん俺」
「でもちゃんと練習しとくから。次は失敗せんようにするね」
宮くんがあの日の舌打ちとか台詞とかを本当に覚えていないのかは分からない。が、「失敗した誰か」には怒りを持っていた彼も、「失敗したのがクラスメートだった」と知った今は犯人を責めるつもりはないようで。
「……ごめんやん。怒ってないで? 俺」
「ええねんて。もう失敗したくないのはほんまやし」
「真面目か」
「夢に出るくらい怖かったから」
「感受性豊かか」
「やから、謝れてよかった」
あまりに宮くんがばつの悪そうな表情だったので、夢に出たっていうのは言わないほうがよかったかもしれない。でも、本人に謝罪できたおかげでスッキリした。宮くんも許してくれるというし、私もわだかまりが解けてすっきりできたし。
「……今週末も練習試合あんねんけど」
「うん。やから練習しててん」
「白石さんも来んの?」
「その予定」
宮くんが「あのヘタクソ外してくれ」とか言わなければ、だけど。もしかして今から直々に戦力外通告されるのかな。有り得る。私はちょっぴり身構えた。
「ほんなら思っきし吹いてや。失敗しても怒らんから」
しかし意外にも、宮くんからは私をリラックスさせるような言葉が放たれた。
失敗しても怒らないって、確かに私を目の前にして怒ることはなさそうだけど。前みたいに「誰やねん」って苛々してしまうかもしれないし。それになるべく失敗しないほうがいいだろう。だって、サーブの時は絶対に気が散りたくないだろうから。
「……でもサーブん時は嫌やんね……?」
「そらぁな! ホンマはな! なるべくな! なんやねん緊張ほぐしたろ思たのに」
「えっ! ごめん」
どうやら本当にリラックスさせるための言葉だったらしい。そんな気遣いをしてもらえるなんて驚きだ。宮くんは意外そうな私を見て、またまたばつが悪そうに「もーええわ」と唇を尖らせた。
宮くんのことが怖くないかと聞かれれば、即答するのはまだ難しいけど。たぶん悪い人じゃなくて、むしろ良い人なんだろうとも思うけど。私がこれまでよりも心を込めて応援し、サーブが決まれば自分のことのように嬉しくなり、宮くんに対してちょっと特別な気持ちを持ち始めるのは、もう少し先の話になる。