シトラスエキスプレス
自意識過剰だと言われれば、それまでかもしれない。だけど私は、最近誰かに見られているような気がしてならないのだ。
主に朝、通学のため電車に乗っている時にその視線を感じる。気配が近くにある事もあれば遠くからの時もあって、だけど満員電車の中でそれを確定させるのは難しい。今のところ「視線を感じる」というだけで他の被害は受けていないし、誰かと目が合ったわけでもないので(私が辺りを見渡したせいで何人かと目が合ったの以外は)、気にせず電車通学を続けようと思っていた。
『ドアが閉まります』
その日の朝、学校まであと一駅のところで私はハッとした。今もまた誰かに見られているような気がする。
だけど閉まりかけのドアに駆け込んでくる人波に押され、私は周囲を確認できないまま、反対側のドア手前まで押し込まれた。
最悪だ、次に降りるのはあっち側のドアなのに。そう思った時、もうひとつ最悪な事が起きた。
「……?」
まだそれを「最悪」と呼ぶのかは分からない。もしかしたら気のせいかもしれないし、まさか自分がそんな被害に遭うなんて想像もしていなかったし。だから、お尻のあたりに感じる妙な な感覚には気付かないふりをしていた。
『次は梟谷、梟谷』
運転士と思しき放送が流れ、私は次の駅で降りるために鞄を持ち直した。それから足を踏ん張った。間もなくカーブがあるので、毎朝ここで車内がグラつくのだ。特にヒールを履いているOLさんは大変だろうなと思う。私は数センチのローファーだから大丈夫だけど、力を入れなければ倒れてしまいそうになる。
そして今朝もいつもと同じくカーブを曲がり、電車内の人々は遠心力によって体勢を崩した。その時私はいつものように踏ん張ったけど、後ろに居た人が大きく揺らいだみたいで、ものすごい体重がのしかかって来た。
「!!」
転びそうになる私、だけど私のすぐ前にも人が居るのでなんとか立ったまま持ちこたえる。それでも後ろの人は私にピタリとくっついたまま動かなかった。
満員電車だから仕方ないのかなとも思えた。けど、やっぱり違う。おかしい。私、お尻を触られている。
「……」
驚きと恐怖とで声が出なかった。身体は固まって動かない。ただただ鞄をぎゅっと握りしめることしかできない。そうしているうちにスカートの上を這っていた誰かの手(あるいは太ももか、他の何か)が離れ、かと思えばスカートの裾をたくし上げられた。
私の太ももに直に触れている誰かの手。怖くて気持ち悪くて仕方がない。だけどここで声を上げたとして、周りに冤罪だと思われたらどうしよう? 私の思い違いだったら?
「白石!」
その時、大きな声で名前を呼ばれた。びっくりして顔を上げると、同じ車内に見慣れたクラスメートの顔が。木兎光太郎くんだ。
背が高く周りの人よりも少し顔が突き出ていて、すぐに彼が木兎くんであることは分かった。その木兎くんと私との間には二人くらい人が立っていたけれど、それをかき分けながらずんずん近付いてきた。
「……木兎くん」
「オハヨー。この線使ってるんだ?」
「へ」
突然振られた平和な会話に拍子抜けしたけれど、私の下半身を触っていた誰かの手はすぐさま引っ込められた。木兎くんの登場にも驚いたし、痴漢の手が急に引っ込んだのも驚いたし、私はどこに意識を向ければ良いのか分からない。
「今日の一限って何だっけ?」
「え……と……」
「あ。英語だ! 俺当てられるかも」
木兎くんは私の返答を待たずにあれこれと勝手に会話を続けていく。とてもおかしな人だけど、彼がちょっぴり変な人だというのは知っていたからどうってことない。
それよりも重要なのは、私は彼と同じクラスであるとはいえ、全くと言っていいほど話をしたことが無いのだ。それなのにまるで普段から交流があるかのように日常会話を進める。しかも一限目は英語じゃなくて選択科目だから、私と彼は違う教室で違う内容の授業を受ける。だもんで、私は開いた口が塞がらない。
『まもなく梟谷、梟谷です。左側のドアが開きます……』
そうこうしているうちに電車は減速を始めた。もう私の背中には何も感じない。というよりまだ私は「木兎光太郎が急に慣れ親しんだようにしてくる」ことと、「先ほどまで痴漢に遭っていた」ことの狭間で戸惑っていた。
「教室着いたら宿題答え合わせしてくんね?」
「え、あ、はい」
「約束! ……よし、行くぞ」
木兎くんは勝手な約束を取り付けて(答え合わせが必要な宿題も出ていない)、張り切った様子でまもなく開くドアの方を向いた。
それだけでなく私の背中をそっと押したかと思うと、もうひとり別の誰かに声を掛けた。
「あんたも来いよ、オジサン」
その声に私たちの周囲はしんと静まり返り、木兎くんへの視線が集まるのを感じた。私もなぜか冷や汗が流れてしまった。木兎くんの声がさっきまでと違い、とても低く鋭くなっていたからだ。
「痴漢してたっすよね? この子のこと」
「え、」
「この子」と言いながら木兎くんは私の背中をぽんぽんと叩いた。
この時「え」と声を出したのは痴漢の男性だけでなく、私も「え?」と間抜けな声を漏らした。だって木兎くんは、そんなの全く気付いていなかったように思えたし。世間話を続けていただけだし。そりゃあ確かに、突然話しかけて来たのは変だなって思ったけれども。
「降りましょーよ。ね」
木兎くんは痴漢に向かって怒鳴るでもなく、諭すように冷静に促しているかに聞こえた。
私はまだわけが分からなくてボンヤリしていたけど、周囲の冷たい目線に耐えられなくなった痴漢の人が、項垂れて頷く姿はなんとなく覚えている。
◇
梟谷駅で降りてから、私と木兎くんは別室に連れられた。もちろん痴漢も駅員さんによってまた別の部屋に連れていかれた。私たちは事情聴取をされて、学校には遅刻する旨を電話して、非日常的な空間から解放されたのはしばらく経ってからだった。
被害届とか、そのあたりのことは後日お母さんと一緒に警察に相談に行くことになった。なんたって、何度も言うけど私はまだ頭がこんがらがっているのだ。
だけど、何がどうなったのかはようやく理解できた。私は確かに電車で痴漢被害に遭い、同じ車輌に乗っていた木兎くんがそれを目撃したらしい。正しくは、偶然私の姿を見つけてなんとなく見ていたら、私の様子がおかしいことに気付いたのだとか。
「……ありがとう」
「いーっていーって! 本当たまたま見えたんだしさ、俺いつもはもっと早いんだけど。この時間ってあんなに混んでるのな」
バレー部の朝練がある木兎くんは普段、もっと早い時間の電車を利用しているらしい。今日は偶然練習が休みで私と同じ電車だったのだとか。
彼が必要以上に明るく振舞っているのはわざとなのだろう。申し訳ないのと同時に、とても有難かった。一人だったら泣き寝入りしていたし、誰にも言えずに立ち尽くすしか無かったから。
「……白石?」
呼ばれるまで私は、頬を流れる生暖かいものに気付かなかった。木兎くんが心配そうに私の様子を伺っており、両目から涙が流れているのを見て慌て始めた。
「え、嘘だろ!? 泣くのかよっ」
「う……、だ、だって」
「怖かった?」
「怖かっ……たし、もぉ、びっくりして」
どうやら一気に気が抜けたみたい。ぼろぼろ涙が出てきて止まらなくて、またまた周りの人に見られる羽目になった。ただし今度は木兎くんが悪者だと思われてしまってるかもしれず、泣き止みたいのに泣き止めない。
「お前が泣く事ないんだぞ。悪いのはアイツなんだからな」
「う、うん」
「逮捕されてったろ? もう大丈夫だよ」
「ん」
「まったくけしからん奴だな、ちくしょう」
木兎くんは周囲の目を気にすることなく腰を曲げて、なるべく私と同じくらいの目線で宥めてくれた。そして私の涙の原因に怒りを持っている。それが頼もしくて、まだ恐怖は残っているのに嬉しくて、気持ちがあちこちに揺れてしまう。何を考えておくのが正解なのか分からなくなった。
「休む? 今日」
黙り込んでいる私がまだ恐怖に怯えていると捉えたのだろう、木兎くんが言った。
「……行く」
「え。無理すんなよ」
「いい」
「俺が先生に言っとくし」
「大丈夫」
学校を休むという選択肢は無い。木兎くんが登場する前だって、「早く駅に着け」「着いたらダッシュで学校に行くぞ」「皆の顔を見れば気が紛れるかも」と思っていたから。それに、休んだら私は痴漢に屈したことになる。
「あんなオジサンのせいで休みたくない」
もう逮捕されるのだろうし、太ももの気持ち悪い感触はまだ残っているけど、私の楽しい学校生活に影響させてなるものか。
強く言い放った私が、木兎くんには意外だったのかもしれない。丸い目玉を更に丸くして何か言いたげだったけど、納得したように頷いた。
「……まーそれならいいけど……でもシンドかったら言えよな」
「ありがとう」
「んで今度また何かあったら言え! 同じ路線だから」
「木兎くん、朝もっと早いんじゃ」
「あ、そうだった……まあ出来るかぎり何かするから!」
だから言え! と強く胸を叩く姿に、やっぱりちょっと救われた。
私は確かに痴漢をされていたのに、さっきの今で男の子にこんな感情を抱くなんて不思議だ。木兎くんが味方だって思えたら元気が出たし、最近感じていなかったくすぐったくてじんわり熱い感情が心地よくて、いつの間にか笑顔を取り戻していた。