めでたしめでたし、後は知らない
終礼の鐘が鳴り、ホームルームが終わると生徒たちは一斉に散らばり始める。待ちに待った放課後がやって来たからだ。各々部活をしたり、帰宅してゆっくり過ごしたり、友人と寄り道するのを楽しみにしている人も居るのだろう。
そんな中、一学期の保健委員になっている俺は委員会に行かなきゃならないんだけど。それも特に苦ではない。まず今日は月曜日だから部活の時間を削られる事もない。そして月曜日以外の放課後を部活に捧げている俺にとって、恋人に会える貴重な時間がこの委員会なのだ。
「及川くん、お疲れ様ー」
「おつかれ」
「及川先輩、次の試合いつですか」
「練習試合は来月だよ」
委員会の集まりが行われる教室に行くと、全学年・全クラスの保健委員が集まっていた。中でも女の子たちは俺の姿を見つけると嬉しそうに寄ってくる。
こういうのは素直に有難いのだけど、今となっては複雑だ。気のない女の子たちに人気が出ても特別嬉しくはないから。
でも彼女たちのおかげで試合の応援が華やかになるのは事実だし、嫌な気分でもないので、蔑ろには出来ない。
「早く終わんないかなー」
「でもさあ、保健委員ってわりと楽じゃんね」
委員会の開始が近づくと、生徒たちは思い思いに呟いていた。
保健委員の仕事内容は確かに楽だ。生徒会から降りてくる通達を各クラスに周知したりするだけ。時々体調を崩した生徒が居れば保健室まで案内したり。「保健委員」とは名ばかりで、誰にだって出来る事なのである。
だから俺は文句のひとつも言わずに委員会が始まるのを待っていた。
時間ちょうどに教室前方のドアが開き、スカートからすらりと伸びた脚が一歩ずつ教室内に踏み入ってくる。だんだんと静まり返る教室。俺は真っ直ぐに前を向いた。たった今入ってきた人物は教壇の真ん中に立ち、生徒の前で堂々と背筋を伸ばし、教室内を見渡して欠席者の有無を確認すると、凛としたうつくしい声で言った。
「では、委員会を始めます」
口角を全く上げる事なく言い放った生徒会役員、保健委員長の白石すみれは淡々と今日の内容を話し始めた。
相変わらず愛想が無くて、だけど素っ気ないってわけでも無くて、掴みどころのない女の子だと思う。
そんな彼女の心をその手に握る事が出来るのは、一体どんな男だろう? 誰もがそう思っているに違いない。きっと疑問を抱いているだろう。俺以外は、だけど。
ほんの十分程度の委員会が終わると、集まっていた保健委員たちは散り散りになり各クラスに戻り、あるいはそのまま下校して行った。
俺もその波に紛れて教室を出た。既に鞄は持ってきているので下校の準備は出来ている。だから下駄箱に真っ直ぐ進むのが普通なんだけど、俺はそうしない。入ってきた時と同じく前方のドアから教室を出て、そのまま生徒会室に向かう保健委員長の後を追ったのだ。
「や」
そして、後ろから声をかけた。
咄嗟にこちらを向いて顔を上げ(俺の顔が彼女の目線よりもずっと上にあるからだろう)、長いまつ毛を惜しむ事なくパタパタと揺らして瞬きをする。普段ならば冷たい声で「何?」と言われるのだろうが、今はそうでは無い。誰にも知られていないけど、青葉城西高校の保健委員長は及川徹の恋人なのだから。
「とおっ……及、何」
「誰も居ないよ大丈夫」
「な、何してるのビックリした」
「失礼だな。追いかけてやったのに」
すみれは俺がそう言っているあいだも辺りをキョロキョロ見渡して、誰かにこの様子を見られていないか気にしていた。
「一緒に帰ろう」
この後すみれは生徒会室に戻り、ほんの少し仕事をすれば下校できるはずだ。今日は月曜日だし俺には時間がある。すみれを待つ事くらいなんの苦痛でもない。
が、すみれは簡単にはそれを許してくれないのだった。
「……駄目」
「またそれぇ?」
「だってまだ明るいし生徒が残ってるんだよ、見られるじゃんか」
「見られてもいいじゃん」
「やなの!」
ピシャリとそう言われるのも慣れてるし、むしろすみれの強い物言いは嫌いじゃない。だけどどうしても納得がいかなかった。
付き合い始めた当初から「周りに内緒にしたい」と言っていたすみれを、俺は一度は受け入れた。ただ知られるのが恥ずかしいだけだと思っていたから。そのうち慣れれば公に出来ると思っていたし。
でもすみれは、付き合い始めて数ヶ月が経過した今も、友人にすら俺との関係を明かしていない。岩ちゃんに言うのも禁止されているくらいだ。いい加減こんなのは終わりにしたい。
「すみれは、俺が他の子に愛想振りまくの見ても何とも思わないの?」
すみれが教室に入ってくる前、俺は同学年や後輩の女の子たちに囲まれていた。今日以外もそうだ。もはや日常茶飯事である。
彼氏がそんな状態だと、普通は嫉妬したり腹を立てたりするもんだけど。
「……あんまり。」
「だよねー。凹むなあ」
「だって付き合う前からそうだったじゃん」
こんな様子で、すみれはあまり嫉妬心の芽生えない女の子なのだった。
そりゃあ激しく嫉妬されるのは御免だが、少しくらい妬いて欲しいのが本音だ。俺が今でも女の子たちに愛想よく振る舞うのは、すみれのムッとする顔を見たいからでもあるのだが。ムッとしてくれないすみれに対して俺がムッとするという、情けない結果に終わってしまう。
「明日の練習、見に行くから。そのあとで一緒に帰ろ? 夜なら暗くて見えないし」
少しむくれた俺を見て、すみれは機嫌をとるように代替案を出すのだった。夜なら暗くて見えないって、まるで犯罪でも犯してるみたいじゃないか。
「……そんなコソコソしなくたっていいのに」
ぼそぼそ呟いた俺の声は、さっさと歩く彼女に届く事はなく。虚しく廊下に響いて消えた。
最初は俺だって、「内緒にしたい」というすみれの申し出を無理やり払い除けたりはしなかった。いつどのタイミングで友人に言うか、すみれに任せようと思っていたし。まさかずっと内緒にしておきたいだなんて思わなくって、俺は何度も歯がゆい気持ちを押し殺した。
「及川くん」「及川先輩」「徹くん」皆が好き勝手に俺を呼び、近寄ってきて、時には身体に触れてくるのを「ごめん。俺、彼女が居るんだ」と躱せるようになるのはいつの事だか。
翌日の放課後、すみれは約束どおり練習を見に来ているのが伺えた。時折目が合ってはこっそり手を振って、すみれが振り返したり首だけを振って反応したりするのに一喜一憂するなんて俺もまだまだうぶである。
だけど俺は主将だし練習に集中しないわけには行かず、途中からすみれの事を気にする時間は無くなっていた。練習が終わり、そういえば一緒に帰る約束をしていたのを思い出すまでは。
『階段で待ってる』というメッセージを確認し、俺は着替えを終えるとその「階段」に向かった。体育館の二階へ登る階段は、部活が終わればほとんど誰もやって来ないから。
「すみれー……、」
時々待ち合わせをする階段の中腹で名前を呼び、その姿が目に入る直前で俺は立ち止まった。
話し声がする。聞こえたのがすみれの声ならまだいいのだが、残念ながら違った。
「白石先輩が居るから俺、保健委員に立候補して……」
しかもその声は震えながら「白石先輩」と口にしており、立ち会ってはならない場面に遭遇してしまったと理解した。すみれが誰かに告白されている。昨日の保健委員会に居た後輩の中の誰かに。しかし、どんな男が居たのかなんて微塵も覚えていない。すみれの事しか見ていなかったからだ。
「ごめんなさい……」
すみれが申し訳なさそうに断る声が聞こえるまでが、永遠のように感じられた。練習後だからなのか首筋に変な汗が流れてくる。「よかった」と心底安堵した。それと同時に、どうしようもない憤りも感じた。
「……わかりました」
後輩の男の子は思いのほか早く引き下がった。これにも俺は助けられたが、心の奥に生まれたもやもやした気持ちと、めらめらと燃える怒りにも似た感情は抑えられない。
振られた彼が去っていく足音が聞こえ、階段の陰に隠れていた俺はすみれのもとへ足を踏み出した。さっき男の子が降りていった階段を登っていくと、「はあ……」とすみれが息を吐くのが聞こえた。
「何の溜息?」
ちょうどすみれの姿を捉えた俺が訊ねると、彼女ははっとして飛び上がった。さっきの彼が戻って来たとでも思ったのだろうか。
「及川っ……」
「徹。ねえ今の何?」
俺は、せめて二人でいる時は苗字で呼ぶのを許していない。そして今は、それを優しく指摘できるような余裕が無かった。
「別に、なんか後輩の子が話があるって言って」
「告白されてたよね確実に」
「さ……されたけどっ、何も無いよ断ったし」
「当然だろ」
こんな会話をしながらも俺は足を止めず、すみれを壁際へと追いやっていく。これ以上後ろに下がれないすみれは背中をべったりと壁に付け、まだ近づこうとする俺から逃れるように、両手を俺の胸へと当てた。
「何で怒ってるの……?」
俺が怒っているように見えるらしい。怒っているつもりは無いが、怒っていないわけでもない。今の俺がどんな気持ちで居るのかを、言葉で説明するのはとても難しかった。
すみれの手を払い除けて、そのまま抵抗されないようにぎゅうっと握る。こんな時でもすみれは誰かが近くに居ないかと気にしているようで、視線がきょろきょろと動いていた。
「……すみれは俺に嫉妬しないって言うけどさあ」
俺の声が普段よりも低いのが分かると、さすがに彼女は俺を見た。上目遣いになっているせいか、怯えているようにも見える。単に戸惑っているだけかもしれないが、すみれがどんな気持ちで居ようとも今は関係ない。
「俺はするよ。歳下にまで言い寄られてるすみれを見ると、すっごいイライラする」
「な……」
「俺の彼女だぞって言いたくなる」
「……」
「言わせてよ」
額に唇が当たるか当たらないかの距離でお願いすると、すみれはくすぐったそうに顔を背けた。この状況でそんな抵抗を許すはずもなく、俺はすぐにすみれの顔を元の位置へ戻す。すみれのちいさな顔を真正面に向けるのなんて、俺の大きな手があれば造作もないのだった。唇をぎゅっと噛み締めたすみれが懇願するように見上げてくるのも、俺の動きを止める決定的な材料にはならない。
「ん、」
俺が口付けやすい向きに顔を固定されているせいで、すみれは全く抵抗できずに俺の唇を受け入れる羽目になった。生徒会役員のくせに、学校の敷地内で。
自分は全校生徒の鑑であるべきと考えている彼女にこんな苦痛を強いるのは申し訳ないが、俺も同じくらいの苦痛を味わった。特に今日、たった今。
角度を変え、強さを変えながらさんざんキスをした後に顔を離すと、すみれはすっかり息が上がっていた。このままここで首元のリボンを解き、ボタンをすべて外し、ブラウスを剥ぎ取ってどうにかしてやりたいのを必死に堪える。俺は今、すみれを襲いたいわけじゃない。
「……言いたい」
「徹……っ」
「だめ?」
耳元で囁くとすみれはぴくりと震えたが、俺を押し返すでもなく、ただ俺の制服を強く掴んだ。
「……みんなに知られたら絶対苦労する 」
「させないよ」
「私じゃなくて徹がだよ」
周りに交際を知られたら、俺が苦労する。そんなのは考えた事もなくて、俺は思わず顔を離した。
「徹は注目されてるんだし……彼女とか、居ない方がいいと思う。私が徹の彼女だって知られたら、皆どう思うか分かんないし」
すみれは苦しそうに話していた。信じ難いほど悲しい事を。俺に彼女が居ないほうが良いだなんて、本気でそう思っているのだろうか。だとしたらすみれはどうしたいのか、どうするべきだと考えているのか?
「別れたいってこと?」
絶対に答えは聞きたくない。だけど聞かなければ話を進められない。
恐らく返ってくる答えは、俺の望むものとは逆である。すみれが息を吸って答えるまでに心の準備をしなくてはならない。「別れよう」と言われて涙を流してしまわないように。
……と覚悟を決めていた俺だけど、すみれは真っ赤になりながら全く違う答えを出した。
「……それはヤダ」
「ヤなのかよ」
「だから隠しときたいの!」
「そんな必要ある?」
すみれの理屈には呆れ返るほか無い。俺が苦労するだなんて決め付けた挙句、だから交際を隠しておきたい、別れるのは嫌だと我を通す。そろそろ俺も我慢の限界だ。
「堂々としちゃえばよくない? 俺はすぐにでもすみれが彼女だって全校生徒に紹介したい」
それで誰かに何かを言われた時はその時だ。俺は恋愛に現を抜かして他の何かを疎かにしているつもりは無い。すみれだって学業や保健委員の仕事を休んだりサボったりしているわけでも無いのだから。
「お願い」
すみれの瞳がふたつとも、俺の顔をじっと見上げている。俺が真面目に話しているのかを確認する時はいつもこうだ。もちろん今日の俺は大真面目なので、すみれにもすぐに伝わったらしく。観念したように肩を落とし、溜め息まじりにこう言った。
「……じゃあ……徹が言って」
唇を尖らせながら言うすみれは、昨日皆の前で堂々と話していた保健委員長とは全く違う顔だ。及川徹の彼女としての表情で、恥ずかしいのを必死に我慢しながらブツブツと続けた。
「私は聞かれなきゃ答えないからね」
「分かった」
「ちゃんと言ってよね、俺から惚れて告白しましたって」
「そこ要る?」
付き合った経緯まで言い触らす必要があるのかは疑問だが、すみれは「要るでしょ」と譲らなかった。まあ俺から交際を申し出たのは事実だからいいんだけど。
こうして付き合い始めて何ヶ月か経ち、ようやく俺は周りに彼女の存在を明かす事を許された。色んな人に宣言しまくった結果、「必要以上に言わなくていい」と怒られたのは言うまでもない。
ただ、先日すみれに告白していた後輩くんとすれ違い気まずそうに会釈をされたので、さすがに「広め過ぎたかな」と反省した。