ハミング・ディスタンス
この日は練習行かないからね、合宿の予定とか組まないでよね、とクロに頼んだのは数ヶ月前のこと。
クロはおれの望みどおりに今日、部活の練習をオフにしてくれた。無理やり連れていこうとしても無駄だと諦めて、いや、理解してくれているのだ。今日がおれの欲しがっているゲームの発売日であると知っているから。
『いま家に居る?』
そんな時、いよいよ家を出て店に向かおうとしたおれにメッセージが届いた。送り主はクロと同時期に知り合った幼馴染の白石すみれ。小さいころに、クロに誘われて行った公園で出会ったのがきっかけだ。
『いるよ』
もう上着を着て部屋を出るところだけど。と思いながら返信すると、メッセージはすぐに既読になった。
すみれの意図が何なのかなんとなく分かるような違うような、ともかくおれにはゲームを買いに行くという使命があるので家に留まるわけにはいかない。親に外出することを伝え、玄関で靴を履き、扉を開けて一歩を踏み出そうとした時。
「よかった! 居た」
目の前に現れたのは、さっきメッセージを送ってきたすみれだった。
急いで出掛ける支度をしたのか、髪が変な方向に跳ねている。すみれの髪は昔からこんな跳ね方をしているけれど、中学に上がった頃から髪に気を遣い始めたらしい彼女は癖を抑える術を覚えていた。だから、おれがすみれの変な髪の癖を見るのは久しぶりのことであった。
「……なにしにきたの?」
「研磨、今日ゲーム屋さん行くのかなって思って。新作の発売日じゃん?」
「うん。今から行くとこ」
「一緒に行くー」
誘ってもいないのに勝手に付いてこられるのはもう慣れた。知らない相手なら真っ平御免の申し出も、すみれならば特に問題ない。二人並んで道に出て、歩き慣れた通りを少し早めに歩いた。なぜ早歩きなのかと言うと、一刻も早くゲームを手に入れたいからである。
「今日は練習は?」
「ないよ」
「あ。ナシにしてもらったんだ」
「そう」
「クロ優し」
そう言ってすみれはけらけらと笑った。
公園で会ったすみれは勿論クロとも顔見知り、というか同じく親しい幼馴染だ。おれとクロが泥まみれになりながらバレーの練習をしていたのも知っている。今では二人とも音駒バレー部のレギュラーであることも。
電車に揺られて十分ほどで、大きな電気屋がある駅に到着した。電車を降りて改札階に向かう足取りも軽い。おれは素早くICカードをかざして改札を通った。ここでも逸る気持ちを抑えきれずに、ゲートに少し脚が当たってしまったのは秘密。
そんなおれの後ろでピコーンという電子音を響かせ、改札をスムーズに通れなかった人がひとり。「あれ?」と声を上げたその人は(音が鳴った時点で予測できていたが)すみれだ。
「あっ! チャージできてなかった」
「待ってる」
「ごめんっ」
すみれは慌てて乗り越し精算機を探し回っていた、改札のすぐ隣にあったけれど。キョロキョロしたのちに無事ICカードへのチャージを終えて、へらへらと笑いながら改札を出てきた。
これが他の誰かだとしたらおれは、そいつを放ってひとりで電気屋まで足を進めていたかもしれない。すみれのことについては、昔から何があっても「放置する」という選択肢が抜けている。おれとクロとすみれの三人が集まればクロがおれたちの面倒を見てくれるけど、おれとすみれの二人だけになった時、しっかりすべきなのは自分であると理解しているからだ。
おれが男ですみれが女だから、という単純な理由。幼心におれは、男は女を守るべきだと知っていた。ありとあらゆるゲームの世界で、いつだって男に守られているのは女の子なのである。
おれたちはそのまま電気屋に向かい、予約していたゲームを嬉嬉として受け取った。新しいゲームを手にした時は毎度毎度うきうきして、何度だって経験したくなってしまう。
わくわくしながらゲームの予告映像を見ながら待っていたすみれのところへ戻ると、袋を下げたおれを見て彼女が言った。
「買えた?」
「うん。早く帰りたい」
「そうしよそうしよ、」
そこまで言い終える前に、すみれからは変な音がした。どうやらお腹が鳴ったようだ。幸いおれと本人以外には聞こえていないようだけど、近年稀に聞く盛大な音であった。
「……」
すみれはゆっくりと自分のお腹に手を添えた。おれもその動きをじっと見ていたので、自然とすみれの腹部を凝視することとなる。そういえば今は午前十一時過ぎ、まもなくお昼時だ。
「お腹減ってるの?」
「う、うん……帰りにコンビニ寄ろうかな」
「そのへんで何か食べる?」
「えっ!?」
おれの提案に、すみれは飛び上がって反応した。 ふたりで買い食いしたりファミレスに入ることなんて初めてではないのに、今更どうしたというんだろう。
「なに驚いてんの」
「だって研磨、さっさと帰ってゲームやりたいよね…?」
「やりたいよ。当たり前じゃん」
「だよね!? あ、そうか一人で何か食べて来いってこと 」
「こんなトコまで一緒に来てそんな薄情なこと言うわけない」
さすがにすみれが相手でも苛々してきた、というかウンザリした。ゲームをやりたいからって一緒に来た幼馴染を置いてさっさと帰るような人間だと思われている、ということに。
だけどそんなこと微塵も思ってないし、おれだって空腹かと聞かれればイエスだから、もう一度「何か食べる?」と聞いた。
「……じゃあ食べよう!」
「早く済むやつにしてね」
「そうするっ」
そうして一番近くのファストフード店を見つけ、今度はそちらに向かって歩き始めた。店の看板を見るとおれも本格的にお腹が空いてきたな。どのみち空腹のままでは集中力が低下して、せっかくのゲームを堪能することはできない。おれもここで昼食にしよう。
「……て言うかすみれは、何しに付いてきたわけ」
「え?」
「すみれがお腹すいたって言い出さなかったら、おれん家とお店との往復だったのに」
おれはファストフード店の自動ドアをくぐりながら聞いた。買い物に付いてくることはあれど、予約済みのゲームを受け取りに行くだけの外出にまで付いてくるのは初めてだから。しかし、すみれは目を丸くして当たり前のように答えた。
「今日、暇だったから!」
暇な時間をわざわざこんなことに費やすなんてどうかしている。高校生だし女の子なんだからもっと、他にも休日の過ごし方があるんじゃないの。他にも一緒に休日をともにする友だちが居るんじゃないの。社交的なすみれは学校にたくさんの友だちが居るんだから。
そんななか、今日がおれの好きなゲームの発売日だと知っていて、それを手に入れようと街に繰り出すだけのおれに付いてくるほど暇を持て余しているなんて。
「……暇人かわいそう」
「かわいそうじゃありません」
「かわいそう」
「二回言わないでっ」
おれは「かわいそう」という言葉でしか伝えることができない。かわいそうだなんてちっとも思っていないのに、「ほんとかわいそう」と呆れたような芝居をしてしまった。こんなことに労力を費やしてないでゲームをするための力を温存しなきゃならないのに、だ。