ぎこちなく春、はじめました


目が合うとドキドキする、というのは恋している時の決まりごとと言っても過言では無い。
しかし私はそれに加えて、すれ違う時はヒヤヒヤするし同じ空間に居るといたたまれない気持ちになる。つまり私が彼に対して「目が合うとドキドキする」のは嬉しくて高揚しているのではなく、私なんかと目が合ってしまってどうしよう? という意味でのドキドキなのだ。

岩泉くんは同じクラスの男の子で、背が高くて優しくて、誰に対しても平等に接することのできる器の大きな人。そんな岩泉くんに私が恋心を抱くまで、そうそう時間はかからなかった。むしろ女の子なら誰もが彼を好きになるのではと思うほど、岩泉くんには非の打ちどころが無い。

たとえ振り向いて貰えなくてもいいから、卒業までの期間は彼のことを好きでいよう。少しでも仲良くなれればいいな。
そう思って過ごしていたのだが、今や岩泉くんに近付くと私は怯えるようになっていた。というのもどうやら私は、岩泉くんに好かれてはいないようなのである。


「あ」
「うわっ」


朝、ホームルームの前にトイレに行くため教室を出ようとすると、ちょうど朝練後の岩泉くんが入って来るのと鉢合わせた。
ぶつかりそうになった私たちはお互いに足を止め、どちらが道を譲るのか一瞬の躊躇い。私は甘いドキドキではなくて、岩泉くんの邪魔をしてしまったことに対するドキドキが勝ってしまった。


「……ごめん!」


ほんの一秒にも満たないうちだったけど、私は勢いよく謝って飛び跳ねながら横に避けた。岩泉くんはなんとなく「あー、うん」程度の返事をしてくれたように聞こえる。というのも、彼の声は低くてよく聞こえなかったのだ。そのあまりの低さ・声の小ささに、気分を害してしまったのかなと不安になるほど。

こんな調子では岩泉くんと仲良くなるどころか、同じ教室の中で過ごして行けるかどうか分からない。付き合いたいなんて欲は言わないから、せめて友だちとして親しくなりたいのに。そりゃあ、叶うのなら岩泉くんと恋人になりたいなぁとは思っているけれど。


「岩泉くん、これすみれに渡しといて」


とある授業と授業の合間の休憩時、教室の入り口でこんな声が聞こえた。岩泉くんの名前と私の名前が続けて発せられるなんて滅多にないことだ。そのせいもあってか、岩泉くんは目を丸くしていた。


「すみれ?」
「白石すみれ! わかる?」
「あー……」
「ごめん! 頼むね! もう行かなきゃだから」


そう言って去っていたのは隣のクラスに居る私の友人で、次は体育の授業らしく更衣室へ走って行くのが見えた。
そういえば今朝、あの子に英語の辞書を貸したんだっけ。それを返しに来てくれたようだけど、着替えるために急いでいたのか、入口付近に居る岩泉くんに辞書を預けて行ったのだと思えた。受け取った岩泉くんはもちろん私を探すために教室内を見渡し、そして、当たり前だけど目が合った。


「ん」


そばまで来てくれた岩泉くんは必要最低限の言葉を添えて、辞書を差し出した。ちなみに目は見てくれていない。


「ありがとう……」


私が岩泉くんに対して、何か気分を害することをしたとは思わない。だけど私の何かが気に入らないのだと思う。こうして物を渡してくれる時ですら、ろくな言葉を交わせないとは。


「……はーぁ」


元いた位置に戻っていく岩泉くんの背中を見ながら、思わず溜め息が漏れてしまった。辞書がとっても重く感じる。だけどコレのおかげで岩泉くんと会話が出来たのだから、ラッキーだと思わなくちゃ。……岩泉くんが発したのは、たったの一文字「ん」だけだったけど。

その日の放課後、私は運動部の友だちと一緒に部室のあるプレハブ小屋まで歩いていた。その子の部活の愚痴というか悩みというか、つまり長話になっていたので部室までついて行ったのだ。
そんな彼女が無事に部室へ入るのを見送り、帰宅部の私は来た道を戻ろうと歩き始めた時。


「……へえ。岩ちゃんでもそんなことで悩んだりするんだぁ」


聞き覚えのある声がしたので、私はピタリと立ち止まった。
声の主は及川くんだ。去年同じクラスだった。及川くんの言った「岩ちゃん」は岩泉くんのことで間違いないだろう。ちょうど及川くんの隣に岩泉くんが居るのが見える。私は咄嗟に二人から見えないようプレハブ小屋の陰に隠れた。


「つーかお前が無理やり言わせたんだろ。根掘り葉掘り聞いてきやがって」
「だって珍しく浮かない顔だったから」


及川くんいわく、岩泉くんは浮かない顔をしていたらしい。私の前ではいつもしかめっ面の岩泉くんなので、彼の「浮いてる顔」が私に向けられたことは無いけれど。聞き耳を立てていると、「お前のせいだろ」と岩泉くんが呆れたように言うのが聞こえた。


「岩ちゃんさ、顔怖いじゃん。だからだよきっと」
「怖いってなんだよ」
「怖いよソレが。まさにその顔」


と、及川くんが笑って指摘したその時だ。ちょうど顔を覗かせていた私と及川くんの目が合ってしまった。隠れていたはずが、ついつい話が気になって身を乗り出してしまってた。


「!」


慌てて引っ込んだ私だったけど、絶対及川くんにはバレている。ここに隠れたのが私であることが。
どうしよう。偶然ここに居ただけなのに、隠れてしまったんじゃ逆に怪しいよね。何か言われてしまうかな、それとも気付かなかったふりをしてくれるか。


「……この話もうやめよっか」
「何だてめぇ自分から話振って来といて」
「だって岩ちゃん、あの子に聞かれてるよ?」


残念なことに、及川くんは私の存在を無かったことにはしてくれなかった。その上私がここで盗み聞きしていたのを、岩泉くんに知らされてしまったのである。


「白石……!?」


及川くんが「ほら」と指さす先に私が居るのを見て、岩泉くんは大きな口を開けた。その顔は驚きと戸惑いに満ち溢れているけど、もしかしたら怒りも含まれているかもしれない。私は身を隠すのを諦めた。


「ご、ごめ、盗み聞きするつもりは」
「ううん大丈夫。岩ちゃんが恐ろしくて出て来れなかったんだよね」
「え」
「オイ」
「悪いけど俺は甥っ子の迎えに行くから」


及川くんは非常に大きな声で話し、非常に大きく手を振りながら下校して行った。そういえば今日は月曜日で、バレー部の練習はお休みの日だ。

取り残された私たちは及川君の姿が小さくなっていくのを見つめながら、しばらく沈黙していた。だって、何を話せばいいのか分からないし。立ち聞きしていたのを謝るべきかどうか悩んでいたから。だけど先に、岩泉くんが口を開いた。


「いつから居た?」
「えっ」
「どっから聞いてた」


あまりにも低い声で淡々と話すので、やはり怒っているのだと理解できた。が、私は長い時間彼らの話を聞いていたわけじゃないので、何の話をしていたのかは全くもって分からない。


「何も聞いてないけど……ほんと、たった今来たところだから」


本当のことだけど、信じてくれるだろうか。プレハブの陰に隠れていたのは相当怪しかっただろうけど。話の内容が分からないのは事実だ。


「……そっか。ならいい」


岩泉くんはしばらく私の首のあたりをじっと見ていたけれど(彼はなかなか目を見てはくれないのだ)、やがて肩を落としながら言った。……と思ったが、再び息を吸うのが聞こえた。


「……いや。やっぱ待て」
「え」


呼び止められた私は咄嗟に顔を上げ、岩泉くんの顔を見上げた。彼は今は地面を睨んでいる。しかしようやく、ゆっくりと視線を上げた。私の顔に向けて。


「俺の顔ってそんなに怖いか?」


そしてついに私たちの目が合った時、岩泉くんはこんな質問をした。とても真剣な顔で、それこそ怒っているようにも見えるくらいの鋭い目。
「怖いか?」と聞いてくるぐらいだから少なくとも今は怒ってないのだろう。でも、申し訳ないが私の答えはコレだ。


「……怖い……です。」
「まじかよ」
「いや、で、でもほら! 岩泉くんが良い人なのは重々承知なんだけどっ」


格好よくて優しい岩泉くん、力持ちでクラスの行事にも積極的に参加する頼りがいのある岩泉くん。彼のような人を「良い人」と言わずして何と言えば良いのやら。


「でも私に対してはちょっと、怖いかなって……好かれてないのかなぁとは……思ってました」


素敵な素敵な岩泉くんは、私と目が合っている時・私のそばにいる時はたいてい怖い顔をしている。今だってそうだ。全然楽しくなさそうというか、眉を極限まで寄せて不快そうな表情をしている。そして、苦々しそうに声を絞り出した。


「……及川の言うとおりかよ……」
「え」
「クソッタレ」
「えっ」
「いやクソッタレなのは及川であって白石じゃねえけど。つうか俺も俺で相当クソなんだけどよ」
「クソ!?」


岩泉くんはクソクソ言いながら眉をぴくぴくと動かしていたけど、今の内容から察するに、私に対しての文句などでは無いらしい。


「白石を好きじゃないとか、怖がらせたいとかは全然思ってない。むしろその逆っつうか」


今度は頭をぼりぼりかいて、言葉を探しているように見えた。その姿は全然怖くなくて、一生懸命に言いにくいことを伝えようと頑張っているような、妙な可愛げさえ感じる。
だけど次の言葉を聞いた瞬間、岩泉くんを「可愛い」だなんて感じる余裕は無くなった。


「……好き。というか」


何が起きたのか分からなくなる、ってまさにこのこと。岩泉くんが何を言ったのか理解するのに、通常の三倍くらいの時間を要した。


「好き……っ!?」
「なのに白石と目が合ってもすれ違った時も全然うまく話せないし、逆に逃げられてる気がして」
「……」
「それは俺の顔が怖いんじゃねーかっていう及川の予想だったんだけど」


なるほど、ちょうど私が隠れて話を聞き始めた時はそのことを話していたのだ。流れから察するに、岩泉くんの様子を不審に思った及川くんが詮索していたのだろう。……私、意外と冷静だな。心臓はバクバク言っているけど。


「……そんなことない。確かに怖いけど」
「やっぱ怖ぇーのかよ。すまん」
「い、いんだよ! そういうことなら全然」


全然いいと言うかむしろ喜ばしくて光栄というか。岩泉くんからの嬉し過ぎる気持ちに対して私も答えくてはならない。息を吸って吐く時に一緒に声と気持ちを乗せるだけ、簡単なことだ。


「私も岩泉くんのこと、好き……というか、好き……なので」


だけどこういうのって、上手く言葉に出来ないようだ。さっきの岩泉くんがスムーズに話せていなかったように。
岩泉くんは私の気持ちを聞いてほんの少し目を丸くして、それから口を開こうとした。が、きゅっとそれを結んでまたぼりぼりと頭をかいている。何度か口を開いては結び、開いては結んで少しの時間が過ぎていた。同じく私も何か言葉を付け足すほうがいいものか悩んでいたので、息を吸ったり呑み込んだりするおかしな状況。
そうしてついに岩泉くんが声を出してくれた時は、とても恥ずかしい事実を聞かされた。


「……今すぐにでも色々話したいんだけどよ、ちょっといいか」
「へ」
「及川が見てる」
「!!」


私が振り返ろうとする前に岩泉くんは私の腕を掴み、恐らく及川くんとは反対方向であろう方角へずんずんと歩み始めた。
「あのヤロー」とかなんとか呟いているのが聞こえるが、怒っているのか照れているのか(たぶん両方)、その声はそんなに恐ろしさを感じない。格好よくて優しくて私に対して少し怖いと思っていた岩泉くんの態度が、今考えると納得できた。これからはもう少し、教室の中でも笑いかけてくれたりするようになるのだろうか。