ジョウトウな殺し文句
吐いた息が真っ白に広がって空気に馴染んで消えていくのを、最初のうちはしばらく眺めていた。そのうち気候には慣れてきたので何も気にしなくなった。東北地方は寒い寒いと聞いていたので身構えていたけど、予想よりは過ごしやすくて安心だ。高校の修学旅行で行った北海道のほうがよほど寒くて凍えそうだったっけ。
「白石さん、コレ補充しといてくれる?」
私を呼んだのは働いているお店の店長で、店舗に並ぶ商品のうち、在庫が切れそうなものを棚に補充するよう頼まれた。よく見ると他にもいくつか足りなくなりそうな商品があるので、一緒に追加しておくほうがいいかも知れない。
「はーい。こっちも足しときますか?」
「うん。お願い」
というわけで、私は奥から商品を出して棚に並べ始めた。
働き始めて一ヶ月になるこのセレクトショップは、湘南で働いていた店舗の系列店だ。湘南の店長が紹介してくれたので、引っ越してからの採用まではかなりスムーズだった。突然辞める事になったのに次の仕事まで世話になってしまうとは、またお礼に行かなければいけないな。
「すみません」
その時、作業をしている私に声が掛けられた。声のトーンからしてお客さんだ。振り向くと、スーツを着たサラリーマンの男性がとある方向を指さしていた。
「あの、あそこの時計が見たいんですけど」
そう言って指されたのは腕時計が並んだ棚であった。ガラス張りの棚には、防犯の為に鍵がかかっている。店員に声を掛けなければ実物に触れる事が出来ないので、こうしてよく頼まれるのだ。なので「少々お待ちください」と一声かけて作業を中断し、棚の鍵を解除した。
「どれか手に取ってみますか?」
「えっと……じゃあ、これ」
「あ! ネイビーいいですよね」
と話して間を持たせつつ、私は時計を取り出した。少し重いけど色んな機能がついていて便利なやつだ。
男性は時計にこだわる人が多いから下調べしていたんだろうな、と思ってその人の持つ袋を見ると、見覚えのあるロゴが書かれていた。確かこの間、仙台を散策している時に見かけたダイビングスクールの名前だ。
「水深計ついてるので、ダイビングされるんでしたら良いと思いますよ」
だからこんなふうに話を振ってみると、時計を眺めていた彼は目を丸くした。
「……はは。よく分かりましたね」
「そこのダイビングスクール、たまたま知ってたので」
「そうなんだ。有名なんですねー」
そこから少し世間話をして、彼は腕時計をそのまま購入する事にしたらしく「これにします」と笑った。どうやら最近ダイビングのライセンスを取ったらしく、今度沖縄に潜りに行くのだとか。男の人ってこういうアイテムから揃えていくの、好きだよなあ。
「ありがとうございましたー」
時計を購入したその人はしっかりポイントカードも作って行き、足取り軽く帰って行った。
ダイビングかあ、私も少し興味があるかも。今度パンフレットでも貰いに行くかどうか、彼氏に聞いてみよう。
そんな事を考えながら、また店内を歩いていると。
「……あっ」
お店の通路の先に、この店の誰よりも背の高い男の人が立っていた。真っ黒なスーツにコートを小脇に抱えて立っているだけでも様になっているその人は、私の恋人である。まだ私が仙台に来て間もないからか、たまに様子を見に来てくれるのだ。
「一静さん! 何してるんですか」
「サプライズお迎え」
「え、もうそんな時間」
「今日、七時までだよね?」
そう言うと、一静さんは腕時計の時間を私に示した。目を落とすと時計の針は七時十五分を指しており、私は目をぱちくりとさせる。さっき腕時計を売っている間に、いつの間にか時間が経っていたらしい。
「……ほんとだ過ぎてる! 上がってきます」
「ハーイ」
一静さんはひらひらと手を振ると、店内を散策し始めた。
このお店は前述の通り、私が一静さんと出会った湘南のセレクトショップの系列店だから、店のスタッフも私と彼の事はなんとなく知っている。皆大人だから深くは突っ込んで来ないけど、一静さんは見てのとおり素晴らしく目立つので、たまーに馴れ初めを聞かれたりする。そりゃああんな人が私の上がりを待っていたら、聞きたくなるのも無理はないだろう。非の打ち所がないくらい素敵なんだから。
「お待たせしましたぁ」
タイムカードを打って着替えを終え、私は店内を歩く一静さんに合流した。今日は一緒に帰ってお泊まりの予定なのだ。仙台に越してくる時に一静さんと同棲するかどうか少し悩んだけど、最初は一人暮らしでやってみようと言う事になった。まあ、結局借りた家は一静さんの家の近くなのだけど。
「お疲れ様でした」
「一静さんこそお疲れ様です」
「こっちのお店、慣れた?」
「はい! みんな湘南の人みたいに優しいので」
「お客さんも優しそうだよね」
一静さんは歩きながらさらりと言ってのけたけど、ほんの少し言葉に棘があるような気がした。棘って言うほどでもないけど、なんて言うか、もしかして。もしかしなくても、私の最後の接客の事だろうか。
「……さっきの見てました?」
「どうでしょう」
「見てたんでしょ」
「どんな感じでやってるのかなぁと思って」
「えー。普通ですよ」
湘南で働いていた時も今も、私は特に何も変わっていない。あ、湘南の時みたいにお尻に値札を貼ったりするドジな事にはなっていないけど。
しかし、今日の私を観察していたらしい一静さんは頭をぽりぽりとかいていた。
「……いや参った」
「え。なにがですか」
私が聞き返しても「うーん」と言葉を濁して、すぐには答えてくれない。何か変な事でも言ったかなと首を傾げると、一静さんの手が私の腰に回された。そのまま少しだけ抱き寄せられて一静さんに体重を預けてしまいそうになる。と、
「可愛い彼女が居ると、こんなにハラハラしなきゃならないのかぁと」
頭の上からこんな甘い言葉が聞こえて来た。一静さんはことごとく私に甘くて、歯が浮くような事を沢山口にしてくれる。それはとっても嬉しくて光栄なのだけど、おかげさまで私はニヤけた顔を隠すのに必死だ。
「べ、べつにハラハラする事ないですよ」
「したよさっきは」
「さっき? どうして」
「あんな笑顔で接客されたら可愛くて仕方ないから」
だけど、こんな事を言われながら顔を覗き込まれると、赤くなった顔を隠すすべはもう無くなる。
「お……お客さんの前だから、それはあのっ、仕方ない事で」
「分かってる分かってる」
ちょっと嫉妬したなって話だよ、と一静さんは笑いながら答えた。
そんな余裕っぽい顔をしておいて嫉妬だなんて、にわかに信じられない。だけど時々、周りには気付かれない程度に私の肩や腰を抱いてくる事がある。そのたびに私はドキドキさせられて気が気じゃないけれど、もしかして私への独占欲は、私の予想よりもはるかに高いのかもしれない。でも私のどこに嫉妬する要素があるのやら、だ。
「一静さんは……嫉妬なんかする必要ないと思いますけど」
「そ?」
だって私は普通の女の子だし、他の誰かに言い寄られるなんて想像できない。一静さんみたいな人とあの夏、あんな事になったのすら予想外なのだから。思い出しても胸が熱くなる、濃い夏の出来事。何度も何度も汗だくで唇を重ねて身体を寄せ合い、混ざりあった日々の事。
それらを思い出していると身体の奥が疼いてきて、自然と私の身体は彼のほうに傾いた。
「……今夜証明しようか? どれだけ妬いたか」
そっと耳元で囁かれた声に、私が拒否するはずは無く。こくりと頷いた時に少し笑う声が聞こえたので、恥ずかしくって思わず彼の背中を叩いてしまった。