ハッピーエンドが始まった
※設定上、女の子の苗字は「牛島」になります。ご了承ください。
優秀な兄と普通の妹、なんていうのはざらに存在するのだろう。ただ我が家の場合、兄の優秀さが飛び抜けていた。私はそんな兄の事を誇りに思っていたし、幸い誰かに比べられる事も無くのびのびと育ててもらえたけれど。
これで私と兄の性別が同じだったならと考えるとゾッとする。とにかくそれほど牛島若利は頭一つ抜きん出てきた。ことバレーボールに関しては。
青葉城西高校は男女のバレーボール部が有名だったので選んだ学校だ。白鳥沢には恥ずかしながら、学力が及ばないと判断して受験しなかった。お兄ちゃんは「受けてみろ」って言ったけど、お兄ちゃんには悪いけどあんなに肉親が注目されている学校に入学するのは気が引ける。私の事も色んな意味で注目されるに決まっているからだ。
まあ他校とはいえバレー部のマネージャーになる事を選んだ私には、ある程度の洗礼は覚悟していたが。「牛島妹」と呼ばれたり。そんなのは慣れていたけど。
「妹は妹じゃん。別人だろ」
しかし入部挨拶でざわつく空気を一刀両断してくれたのが及川先輩だった。
確かに別の人間なのだけど、どうしてもバレーボールで有名になり過ぎたお兄ちゃんの存在は、私と接する上で重要になってくると思っていたのに。
「……別人ですか」
「同一人物なの?」
「ち、違いますけど……」
「お前がそんなに兄貴を気にしてるなら、下の名前で呼んでやろうか?」
恋に落ちたのは一瞬の事であった。別にその言葉を欲していたり期待していたわけじゃないのに、私は彼の言葉にきゅんとした。
それから主将の及川先輩は私を「すみれ」と呼ぶようになり(もともと誰に対してもフランクに話し掛ける人だったが)、私は面白いように彼の魅力に惹き込まれた。姿かたちが美しい事は勿論、堂々とした態度とか後輩に慕われている事とか、視野が広い事とか何もかも。そして当然女の子にモテるだろうとは思っていたけれど、予想以上に先輩は人気者だった。
私を恋愛対象として見てくれる日はきっと来ない。諦めていたその恋だったのに、なんと先輩は今や私の彼氏だ。と言っても付き合い始めてからまだ二ヶ月くらいなんだけど。
「……及川先輩!」
そして、私は未だに先輩を「及川先輩」と呼んでいる。恥ずかしくて呼び方を変えられないのだ。「ゆっくりでいいよ」と言ってくれるので甘えているのもある。
だから今も、一緒に下校しようと待ち合わせていた場所に現れたのを見て、思わず「先輩」と声を掛けてしまったわけで。
「ごめん。遅くなった」
「大丈夫です」
「暑かっただろ?」
「ちょっとだけ……」
夏休みはつい先日終わった。しかし夏が終わったとは到底思えず、未だに最高気温は三十度を超える。そんな月曜日の午後、部活が無い日には一緒に帰ったり寄り道をするのがなんとなく決まりになっていた。
「あ。ねえ、本屋寄りたい」
どこに行こうかと話している時、思い付いたように及川先輩が言った。私は先輩とならどこに行ったっていいので、本屋に行くのは賛成だ。
「それなら仙台駅のとこ、大きな本屋さん出来たらしいですよ。そっち行ってみませんか」
「いいねー」
賛成! と言って、及川先輩はさわやかに笑った。男の人なのに、女の私が見ても綺麗な顔だ。格好良いのに綺麗ってどういう事なんだろう。この人が私の彼氏? と未だに疑問を浮かべてしまう。
「すみれって何かやりたい事ないの?」
電車に揺られながら、及川先輩はこんな事を聞いた。「やりたい事」の意味がよく分からなくて私は首を傾げる。それって将来について、それとも部活内で? または今?
「やりたい事……?」
「なんか、女の子ってデートに理想持ってるじゃん。すみれはあんまり自分の希望を言わないから」
そっちか。まだ答えを用意出来ていなかったので、私は「ええと」と目を泳がせる。
やりたい事は、沢山あり過ぎて何から言えばいいのか分からない。そして先輩の「女の子って」という言い方が、ちょっと気になってしまった。私は誰かと付き合ったのが初めてだから、どんなふうにデートに誘うのかが分からない。及川先輩はこれまでの交際経験の中で、過去の彼女さんから、ある程度の理想とかを聞いていたのだろうか。
「今までの彼女さんは、そうだったんですか?」
単純に気になったので聞いてみると、先輩は一瞬だけ真顔になった。……かと思えば、さっと血の気が引いたように青くなった。
「……そういう意味じゃなかった。ごめん」
「え! いや全然いいんですけど、」
「俺ってあんまりこう……自分の中にプランとか無くてさ……」
先輩は苦笑いしながら言った。
聞くところによると今まで付き合った人たちは、アレをしたいコレをしたいと積極的だったらしいのだ。それが嫌な訳では無かったけれど、むしろ叶えたかったけど部活が忙しくて叶えられなかったのを、彼は悔いているらしくて。それはとても人間らしく、普段は非の打ち所のない先輩も、私と同じ種族なんだなぁと思える瞬間だった。
「及川先輩も普通の人間なんですね」
「なんだそりゃ」
「初めて会った時は完璧超人って感じだったんで……」
「はは、超人ねえ」
そんな立派なもんじゃないよと彼は言う。私からすれば、及川先輩もお兄ちゃんも人並外れていると思うんだけど。
そんな先輩が時折見せる、特に同級生の部員と一緒に居る時に見せる姿は「男の子」って感じがする。前に岩泉先輩に怒鳴られているのを見た時は思わず笑ってしまって、「さっきのは忘れて」って言われたっけな。
「あ」
駅に着いて改札を出、歩いていると急に先輩が立ち止まった。何かに気付いたような、何かを見つけたような声とともに。
「え?」
「あ……いや」
何があったのか聞こうとすると、先輩は私の視界を塞ぐみたいに目の前に立った。何かを隠したいようだ。
まさか元カノさんとの遭遇? と冷や冷やしつつも気になってしまい、ゆっくり首を伸ばしてみると。
「あっ!?」
周りに人が居るのも忘れて大きな声を出してしまった。普段は滅多にこんな人混みに出てこないお兄ちゃんが、そこに立っていたのである。
「すみれ。……と、及川か?」
「ウシっ! ワカ!」
「お兄ちゃん」
「何でお前がこんなとこ居るんだよっ」
「息抜きだ」
「息抜き」
そういえばお兄ちゃんは時々おかしな事をする。と言っても危険な事や人に迷惑をかける事じゃないので家族は何も言わないけれど。
今日は「息抜き」で白鳥沢を離れて、こんなところまで走って来たらしい。……何故「走って来た」のが分かったのかと言うと、お兄ちゃんは全身ランニングスタイルで汗をかいていたからだ。
「それよりも何故、お前が俺の妹を連れている?」
お兄ちゃんは及川先輩を見ながら言った。睨んでいるとも言える。
そんなお兄ちゃんを見て、私は口を挟むべきか悩んでいた。だって、私と及川先輩との交際はまだ、家族の誰にも言っていないのだ。警戒するようなお兄ちゃんの目に、先輩もさすがにカチンと来ていた。
「……べつによくない? 俺ら同じ学校に通ってんだぞ」
「一年生と三年生だろう」
「すみれはマネージャーなんですけど?」
「ただのマネージャーを名前で呼び捨てか?」
その場に流れるピリピリとした空気。旋風でも巻き起こりそうだ。このままでは誤解されたまま終わってしまう。
「……お兄ちゃん、あの」
「すみれ、及川に変な事をされてないだろうな」
「しねーよ」
「されてないよ! お兄ちゃん、ちょっと聞いてほしい事がっ」
殴り合いにでもなったら大変だ。意を決して二人の間に入り込むと、お兄ちゃんはようやく一歩だけ下がってくれた。
「今度お兄ちゃんが帰省した時に、言おうと思ってたんだけど……」
なかなか彼氏が出来た事なんて報告するタイミングは無い。しかも初めての彼氏だし、なんたって青葉城西のバレー部主将だし。青城のマネージャーになるって言った時ですらドキドキしたもんだ。特に反対はされなかったけど。
でも、今回は分からない。これは部活動じゃないのだから。
「私、この人と付き合ってるの」
だけど私は真剣だ。及川先輩の事が好き。バレー部での私の扱い方を「牛島若利の妹」ではなく、「牛島すみれ」として確立してくれた人なのだから。
しかし思い切った告白も虚しく、お兄ちゃんは首を傾げていた。
「この人とはどの人だ」
「オイ。どう見ても俺だろ」
「及川徹?」
「正解! 俺ね! 俺だよ! 見える?」
及川先輩ごめんなさい、お兄ちゃんは少しマイペースなだけで悪気は無いんです。
……と心の中で謝罪しながら説明の言葉を探していると、急に肩に手が置かれた。
「付き合ってるんだよ。牛島すみれと」
それからこの言葉が聞こえて、同時に肩を抱き寄せられた。
途端にドキドキとうるさくなる心臓。先輩の手によって肩を抱かれている事もだし、お兄ちゃんがこれを聞いてどんな罵りをしてくるか、それが心配でドキドキは加速した、けど。
「……そうか。ならいい」
お兄ちゃんは案外あっさりと反応した。さっきまであった眉間のしわは、一本残らず消えている。お兄ちゃんは嘘を吐かない。そもそも吐けないので、怒ってはいないのだと理解できた。
「正式に交際しているならいい」
「え。いいの?」
「恋人でもないのに妹に馴れ馴れしくしているのかと思って冷や冷やした」
「俺を何だと思ってんだ」
及川先輩の言う通り。先輩をそこらへんの野蛮な人と一緒にするのはやめていただきたい。野蛮な人に何かされた事なんて無いけど。
とにかくお兄ちゃんは私達がちゃんと付き合っているのだと分かると、警戒を解いたようだった。
「……じゃあ俺は行く。早めに帰れよ」
「分かった」
「遅くなるなら及川に送らせろ」
「言われなくても送るわ」
「だ、大丈夫! 遅くなるまでに帰るっ」
ああやっぱり完璧には警戒が緩んでいなかった! 最後にちょっとした電撃が走ったものの、お兄ちゃんはそれ以上何も言わずに走って行った。ここから寮まで結構な距離があるはず、というのは今は考えないでおこうと思う。
「……はぁ。一触即発かと思った……」
先輩は肩の荷が降りたかのように一気に脱力した。実際にショルダーバッグが肩からずれ落ちそうになるほど。それくらいお兄ちゃんとの遭遇に緊張したのだろうと思う。私ですらさっきのお兄ちゃんは一瞬怖かった。でも、
「さっき、嬉しかったです」
「何が?」
「お兄ちゃんに、牛島すみれと付き合ってるって言ってくれたの」
私達の交際を伝えた時、先輩は私の名前を言ってくれた。「お前の妹と」って言う事も出来ただろうに。
「……何も特別な事じゃないと思うけど」
「そうかもですけど! 私は嬉しかったです」
「だって俺は、お前が牛島の関係者だから付き合ってるわけじゃないし」
先輩はごく当たり前に言ったのかも知れないけど、私はまたひとつ及川先輩を好きになってしまった。だってそんな事を言われたら、嬉しくない女の子なんて居るわけないから。
「すみれがすみれだから好きになったんだよ」
さっき肩に置かれていた手が、今度は私の頭に乗っかった。髪をぐしゃぐしゃに掻き回すでもなく、ただ優しく撫でるみたいに。
「……は……ず……かしいことを、そんな」
「照れない照れない」
「照れますよ!!」
先輩と居ると私は普通の女の子になる。なんの特別な才も持っていない私には、お兄ちゃんという存在に少なからず萎縮していたのかもしれない。良いお兄ちゃんだし、尊敬できて自慢できる人だけど。
お兄ちゃんと同じくらい素晴らしい人が私を好きになってくれた事実のほうが、何倍も自慢になっちゃうかも。