砂糖とスパイスと無敵な何か
毎朝、鏡を見る時間が増えた。それは先月できた恋人のおかげで、わたしの髪に合うスタイリング剤を教えてくれたり、セットの仕方を教えてくれたりして、髪を触る時間が増えたとも言える。
今まで適当にシャンプーをして、朝起きた時の寝癖は濡らして適当に抑えていただけだったけど。ずっと前に髪を切ってからというもの、周りからの評価は上がりっぱなしだ。
「白石さん、いつも綺麗にしてるね」
今日は会社の先輩にそう言われた。顔は合わせるけれど時々しか話すことのない人。だから少しびっくりしたけど、褒められて嫌な気分はしない。だってわたしが褒められるという事は、彼氏である花巻貴大さんが褒められるのとイコールなのだ。
「そ……そうですか?ありがとうございます」
「もしかして彼氏出来た?」
雰囲気変わったよね最近、とその人は言った。
付き合い始めて一ヶ月が経ったけど、まだ「彼氏」と言われると歯が浮く時期だ。たぶん今のわたしは嬉しそうな、にやにやした顔をしていると思う。
「……出来ましたけど。まだそんな堂々と言えるようなものでは」
「何、社内の人?」
「まさか。違いますよー」
このくらいの会話なら普通かなという気持ちと、この人ちょっとデリカシー無いんじゃ? という気持ちが生まれた。しかも先輩は男性だし。わたしが誰と付き合おうが関係ないのに、それが誰なのか特定しようとしてくるとは。しかも極めつけはコレ。
「よかった。じゃあ今度、ご飯でも行く?」
何が「よかった」なのか分からないけど、当然わたしは丁重にお断りした。
わたしの恋人が会社内に居るとしたら誘いにくいから? そりゃそうだろうけど。彼氏がどこの誰であろうと、「居る」と知ったら誘わないのが普通だろ!
「……っていう事がありまして」
その夜わたしは、れっきとした彼氏である貴大さんを家に招いていた。彼の働く美容室はわたしの家の近くで、家もあまり離れていないのだ。
そんな貴大さんに昼間の事をなんとなく話してみると、やっぱり苦笑いしていた。
「へえー。図太い男だな」
「ですよね? びっくりしました」
「で、すみれちゃんどうやって断ったの」
貴大さんは隣に座るわたしに体重を預けながら言った。身長のせいもあってなかなか重い。それにこれは、きっとわざとである。
「……言わせたいだけでしょ」
「聞きたいから」
「えー……」
「俺も変な男に絡まれた時の参考にしたいから断り方教えてー」
こんな大柄な男の人に絡む人なんて居ないと思うんだけど。
貴大さんは歳上なのにすごく甘え上手で、しかも甘やかし上手で、全てにおいてわたしの気持ちの一歩先を読まれている気がするのだ。だからわたしが、そんなことを言うのは恥ずかしいって感じてるのを読んでいる。そして、「貴大さんにそう言われたら言うしかない」と感じてるのも。
「……恋人が嫌がることはしたくないのでって……言いましたけど……」
改めて恋人の前で言うのは相当照れくさいので、わたしはモジモジと言葉を発した。貴大さんは更に体重を預けてきながら耳を傾ける。そして答えに満足すると、いつのまにか反対側に回されていた腕で抱き寄せられた。
「百点まんてーん」
「わぁ」
「しつこく聞かれてない? 大丈夫?」
「だ、大丈夫ですよ」
一度断ったら先輩はすぐに諦めて仕事に戻っていたし、その後も特に何も起きなかったので大丈夫だと思う。後から同期に聞いた話、同期の女の子もあの人に誘われた事があるらしいので、特にわたしだけに固執してるわけじゃないと思う。
それに今日わたしが声をかけられたのは、わたしの本来の魅力のせいじゃない。
「わたしが急にイメチェンし始めたから、みんな珍しがってるだけです」
しかもそれは自分の手柄ではなく貴大さんのおかげ。これまでろくなヘアアレンジもしてなかったし、メイクだって毎日一緒だった。それが急に色気づき始めたもんだから、面白がられているだけのような気もする。わたしだって周りの人が急にイメチェンしたら気にしてしまうだろうし。
だけど貴大さんはその考えには反対の様子で、唇を尖らせていた。
「……急に可愛くなり始めたから、みんなが放っとかないんじゃないの?」
「え」
「まー俺は元からその可愛さを見出してたわけだけど」
「な、な」
そんなこと真顔で言うなんて、やっぱりこの人ずるすぎる。交際一ヶ月を経てなお、毎日毎日わたしの心をときめかせて来るとは。
「……わたしなんかより貴大さんのほうが、女性にモテて困ると思いますけど……?」
言葉巧みにわたしを喜ばせて、仕事中にもお客さんに同じような事を言って褒めてるに決まってる。それについては仕事だし、好かれなければならない職業だから何も言わないけど。やっぱり不安なのである。貴大さんみたいな人に髪を触られて、褒められて、微笑まれたら誰だってイチコロなのでは?
「大丈夫。俺、そういう空気のある人にはゲイのふりしてっから」
ところが突然のカミングアウト。一瞬何を言ったのか分からなくて、理解した瞬間に「えっ!?」と飛び跳ねてしまった。
「そっちのが色々面倒じゃないし。ビジネスゲイってやつ」
「ビジネスゲイ!!」
そんな単語初めて聞いたんですけど。つまり女性のお客さんには恋愛感情を持たれてしまうと面倒なので、時々自分はゲイであるという設定にするらしい。どういう事だ。
「わたし、そんなの全然感じなかったんですが……?」
「すみれちゃんからは最初狙われてる空気無かったし。てか途中は彼氏のノロケまで聞いてたし、ゲイのふりする必要無いかなと」
「う……」
蘇る黒歴史。前に付き合っていた美容師モドキの彼氏の事を、確かに惚気けていた記憶がある。その時の話を軽く笑い話にしてくれるのは有難いけれども。
過去の自分に顔が引きつっていると、再び貴大さんがわたしの肩を抱いて言った。
「けどさ。今度誰かにしつこくされたら早めに言ってよ」
それも、とても低い声で。思わずドキリとしてしまうほど男らしく、かすれた声。その表情も先ほどと違い真剣で、何やら不穏な空気を感じさせる。
「……はい。え、怒ってます?」
「俺の彼女を誘いやがった輩に怒ってる」
「ち、ちゃんとハッキリ断りましたよ」
「でもムカつく」
それからもう片方の手を回し、ぎゅううと思い切り抱きしめられた。力が強い。結構苦しい。いつもはもう少し優しい力なんだけど、やはり怒っている……というかこれは、妬いてくれてるんだろうか。貴大さんの口から「ムカつく」という単語が出てくるなんてな。
「意外と嫉妬とかするんですね……?」
「言ったじゃん。俺ってこんな奴だよ」
耳元でそう言われると、嬉しさと恥ずかしさで変な気持ちになる。付き合う時に彼は確かに言ったっけ、「俺ってこんな奴だよ」と。大人びて頼りがいのある姿しか知らなかったわたしは、貴大さんの感情が爆発した無邪気な様子を見てびっくりした記憶がある。
しかし、自分の事を「こんな奴」と言う貴大さんだけど、わたしにとっては凄く素敵な恋人だ。わたしが身じろぎすると少しだけ身体を離して、だけど顔は離さなくて、目が合うとゆっくり唇を寄せてくる。ムカつく、なんて言ってたのが嘘みたいな優しさで。
そんな扱いを受けたら周りにどんな素敵な人が現れても、目移りする余裕なんて無い。
「……他の人のことなんて目に入らないに決まってるじゃないですか」
余程の事がない限り。と付け加えると、貴大さんは「余程の事って何!?」と焦っていた。言葉のあやだったんだけど。そんなに心配しなくても、わたしがこの人以外を好きになる日が来るとは到底思えないんだけどなあ。