綻ぶのがへたくそでごめんね
何考えてるのか分かんないね、というのは過去に何度も言われてきたので、今更それを言われても気にしていない。傷ついたりもしないし、表情筋の働きが他人よりも少ない事は自覚している。困る事と言えば怒ってないのに「怒ってるの?」と聞かれたり、楽しいのに「楽しくないの?」と言われたりする事ぐらいか。冷静に思い返すと結構困っているかもしれない。
けど突然俺が表情豊かに笑ったり怒ったりするとそれはそれで病院にでも連れていかれそうなので、「あんまり顔に出ない人」という認識を持たれていた。付き合っている彼女にも、たぶんそう思われてる。
「すみれー、宿題やった?」
俺の彼女を呼ぶ声は、俺のものではない。すみれの幼馴染である鈴木のものであった。
同じクラスのすみれと鈴木は幼少の時から知り合いとかで、白鳥沢に入ってからも何かとつるんでいるように見える。帰る方向が同じだからと一緒に帰ったりしているし。最初はあの二人が付き合っているのかと思ったが、どちらに聞いても「絶対ない」との事で、一応俺は安心しているんだけれども。
「やってるよ。何、してないの?」
「部活疲れて寝ちゃってた。当たりそうなとこだけ教えてくんね?」
「もー」
…などと、俺の居る同じ教室の中でやり取りされるのはちょっぴり困る。いくら相手が幼馴染だからと言って鈴木は男だ。「なんとも思っていなかった幼馴染を突然異性として意識する」なんて事もたまに聞く。もしもそうなってしまったら、たぶん立ち直れない。
だけど「あんまり仲良くしないでよ」とすみれの交友関係や、昔から交流のある大切な幼馴染との絆を制限するわけにもいかない。そんなに器の小さな男だと思われたくないのだ。だから困っている。ていうか、宿題やって来いよ。
「太一っ」
鈴木への不満で頭をいっぱいにしていたら、すみれの顔が目の前に来ていた。何度か呼ばれていたようだ。
「ん。何?」
「なんかぼーっとしてるなって思って」
「あー…うん。ちょっとね」
「太一は宿題やってきた?」
前の席の椅子を引きながらすみれが言う。「太一は宿題やってきた?」というその言葉、さっきの鈴木との会話ありきの内容だからなんとなく嫌だ。鈴木に宿題を写させていた事もあまりいい気分ではない。
ちなみに俺はほとんどの宿題や課題を白布と一緒にやっているので、あまり宿題を忘れた事は無いのだが。今日の俺は嘘をついた。
「…やってない」
「えっ?してないの」
「うん。だからさ、俺も今日当たりそうだから教えて」
「え。だめだよ、ちゃんとやらなきゃ」
すみれが真顔で返してきたので、俺はびっくりしてしまった。ついさっき鈴木には見せていたじゃないか。てっきり俺にも「もー」とか言って見せてくれると思ったのに。
「…一か所だけじゃん。教えてよ」
すでに済ませている宿題の、解き終えている問題の答えを見せてもらうためにこんな気持ちにならなきゃいけないなんて馬鹿みたいだ。だけど「やってない」と言ってしまった手前、それを覆す事は出来ない。すみれは再び机の中から数学のプリントを出すと、俺の机に置きながら言った。
「はい。次はちゃんと忘れずにやんなきゃダメだよ」
すみれは特に嫌味ったらしくもなく、怒ってもいなくて、ただただ普通に上記の言葉を言った。宿題をやっていない人間にかける言葉としては百点満点。
だけどそれ、鈴木には言わなかったよな。今、俺にだけ言った言葉だよな。何故だか今日の俺は、こんな些細な事が気になってしまった。鈴木とすみれは普段から仲がいいけれど、今日たまたま目についてしまったのだ。
「そういうの、鈴木には言わないんだ」
ぽろりと口から出た言葉は、自分の発言だとは思えないような嫉妬丸出しの台詞であった。
「……え?」
すみれが目を丸くして俺を見る。俺も俺の言葉に目を丸くした。今、無意識のうちに言ってしまった。非常に情けなくて格好悪くて消えたくなるような事を。
「いや。ごめん、なんでもない」
「え、なにか言ったよね」
「言ってない」
「言った」
「言ってないよ。空耳」
すみれの耳にはしっかり届いていたらしいけど、俺は無理やりしらばっくれた。大丈夫。俺はこういう時、何事も無かったような顔をするのには長けているのだから。
「……怒ってるの?」
しかしすみれは訝しげに眉を寄せた。勘づいてしまっただろうか。「怒ってない」と口で伝えると「そっか」とすぐに引き下がったので、何も気づかれていないと思いたい。
そう、俺はべつに怒ってなんかいないのだ。ただこの感情にどんな名前をつけるのが適切なのかが分からないだけ。怒りはない。もやもやする。それだけである。
◇
朝一番にそんな事があったものの、その日は他に何も起きなかった。俺は無事に宿題を写させてもらえたし(写したふりをしただけだけど)、鈴木は先生に当てられた個所を問題なく答えていた。ちなみに俺は当てられなかった。今日は当てられない事は分かっていた。
「すみれー、俺今日部活ないからさー帰ろうぜ」
放課後になるとまた鈴木の声がすみれを呼んだ。当然のように一緒に帰ろうとする彼らだけれども、今に始まった事じゃない。俺と付き合う前からそうだった。家が近いんだから当たり前だ。暗くなればすみれがひとりで帰るのは決して安全とは言えないし、だからといって俺は部活があるから送れない。
でも時々こうして鈴木と二人で帰られるのは、いつまで経っても嫌だなあと思ってしまうのだった。
「…えーと。先帰っといて」
しかし、今日のすみれはそれを断った。すみれが断るのは珍しくはないけど、大体は他の女子と寄り道するとかそういった理由で断っている。だけど今日は違うようだ。
「私、太一に用事があんの」
なんと俺に用事があるとかで、今日はまだ学校に残るらしい。何か約束していたっけな。そんな覚えは特にない。
「おっけー。じゃあお先」
「はーい」
鈴木は素直にそう言うと、さっさと一人で帰っていった。俺の近くを通る時に「じゃあ明日な」と声を掛けていくのも忘れずに。悲しい事に鈴木は普通のいい奴なのである。俺が勝手に鈴木に対して変な感情を持っているだけなのだ。「俺が彼氏なんだから、もうちょっと弁えろよ」と思う事は多少あるけれども。
「…俺に用事があんの?」
教室に残ったすみれに話しかけると、すみれはふるふると首を振った。
「ないよ」
「じゃあ帰ったらいいのに。すぐ暗くなるよ」
「いい」
そして、ゆっくりとこちらに近づいてくる。窓からの陽が逆光になっているせいですみれの表情は良く見えない。だけどなんとなく、普段のすみれとは違うな、というのは感じ取れた。
「…なんで?俺、べつに怒ったりしてないよ」
俺が今朝、すみれに言った事。きっと彼女には聞こえていたのだろう。そして今、鈴木と一緒に帰るのを断ったのは俺が近くで聞いているから。今朝の事があったからに違いない。だから俺は、そんなの気にしなくていいんだよという意味で言った。怒ってないよ、と。だって怒っていないから。
「わかってる。太一は怒ってないって事くらい」
ようやく俺の真ん前まで来たすみれが言った。声だけ聞くとすみれのほうが怒っているのかなとも思えたが、なにやら違う。ただ、笑ってもいない。
「寂しいんでしょ」
すみれは短くそう言った。俺の気持ちをすべて見透かしているかのように。
「そう見える?」
「見える」
「俺、顔には何も出してないのに?」
「分かるの。最近分かるようになってきた」
そうして朝と同じように、前の席の椅子を引いてそこに座った。この距離に来ればすみれの顔も、瞳も、口元もすべてがはっきりと目に入る。前髪で少し影になった顔には大きな大きな目がふたつ。それらがふたつとも俺を見ている。俺の顔と心の中を。
「さみしい?」
その問いかけに俺は、否定をすることが出来なかった。そうか、俺は寂しかったんだ。すみれが鈴木のことを甘やかしたり仲良くしたりするのが。「嫉妬」という単純なものではなく。
だけど、否定しないからってすんなり肯定も出来ない。男が「寂しい」だなんて簡単に言えやしない。相手にバレていたとしてもだ。
「…カッコ悪いって言いたいんだろ」
「思ってないよそんな事!」
「鈴木はさあ、そりゃあ幼馴染だから分かるんだけどさ…」
ほぼ初対面の生徒しかいない白鳥沢の中では、幼馴染とか中学からの知り合いとかは大切な存在だ。それが異性だからって関係を断ち切れとは思わない。だけどすみれと一番仲のいい男子が鈴木だなんてのは、ちょっと耐えがたい。
「もうちょっと、俺のこと特別扱いしてほしい」
誰が見ても俺がすみれの一番であると分かるように接してほしいのであった。かなりの我儘だとは分かっている。自分はあまり態度に示さないくせにすみれにはこんな要望を出すなんて。でも俺がここまでの事を言うのは初めてだからか、すみれはしっかり聞いて頷いてくれた。
「…うん。ごめんね」
「あと。傍から見て俺じゃなくて鈴木と付き合ってるように見えるのもヤダ」
「うん」
「宿題俺にも優しく写させて」
「そ、それはちょっと」
「じゃあ鈴木にも断って」
冗談ではない。これは本気だ。今朝のような時にはせめて同等の扱いをしてほしい。これを伝えると、すみれはさすがに少しの非がある事を自覚したようだった。
「…そうだよね。ごめん、それは悪かった」
「今朝はひどく傷つきました」
「ごめんってば…」
謝らせる事が目的ではないので、「もういいんだけどね」とその話は終わらせた。これから同じ事が起きなければいい。似たような事になったら俺、落ち込んじゃうかもしれないけど。
とりあえず解決かなと思い、俺は部活に向かう用意を始めた。しかし筆記用具を鞄に突っ込んで立ち上がる直前になっても、すみれがその場を離れない。ずっと座っている。俺の前に。どうしたのかなと様子をうかがってみると、すみれは下を向いたままで言った。
「…こんな時にアレなんだけどね、」
「何?」
「今、ちょっと嬉しいかも」
がくん、と落ちるように首が傾いた。嬉しいってどういう事だ。今の俺はすみれへの文句とか要望しか言っていなかったのに。
「太一、あんまり自分の意見言ってくれなくて…好かれてるのかなって不安になる事あったから」
「え」
「そういう嫉妬とかしてくれるんだなあって分かったの、嬉しい」
少しだけ顔を上げたすみれが、本当に嬉しそうにはにかんでいるので驚いた。俺、今までこの無表情さは便利なものだと思っていたけど。すみれには通用しなくなってきた上に、そのせいで不安にさせていたのか。
「顔には無理に出さなくてもいいからさ。今みたいに言葉してほしいな」
嬉しいとか寂しいとかむかつくとか、特別扱いしてほしいとか。
俺にとってそれらを口に出すのは恥ずかしくて、格好悪いなって思っていたけれども。意図的に感情を表さなかったわけではないけれど、これでいいと思ってた。すみれは言ってほしいのか、俺に。そうじゃなきゃ伝わりにくいのか、こんなにすみれを好きだって事が。
「…わかった」
「じゃあこれからめちゃくちゃ要望言ってくけど大丈夫?」と言えばすみれは「えっ」と困っていたが、まあそれは半分冗談だ。半分は本気。
少しだけ鈴木には申し訳ないけど、これからはすみれと一緒に帰る頻度を減らしてもらおうかと思う。あと、宿題ちゃんとやって来いって言うのも忘れずに。