駆け引きにうってつけの日
暖かくなるにつれて楽しみな事がいくつかある。制服が夏服になる事(動きやすいから)、練習後に帰宅してからの風呂が気持ちいい事、海に行ったり山に行ったりできる事、それから体育の授業がプールになる事である。
と言っても殆どが男子生徒の伊達工だし、「女子の水着姿が見れるから」という単純な理由ではない。朝練でかいた汗がスッキリするし、何よりプールの最中は服を着なくていいし(動きやすいから)、泳ぐ事そのものが好きなのである。よく考えたらこれも単純な理由かも知れないが。
「鎌ち、今日機嫌いいじゃん」
クラスメートのひとりが言った。周りから見ても分かるほど俺はご機嫌だったらしい。水泳の授業が楽しみな事なんて、今さら隠すつもりもないけど。
「だろ?俺今日すっげえ機嫌いい」
「むしろ不自然に元気」
「なんせ今日からプール開きだからな!」
俺はよほど楽しみだったのか(今思えば少し恥ずかしい)、机の横に吊るしてある水泳の荷物一式を叩いた。
成長するにつれて海に行く事も減ったし、習い事の水泳は小学校高学年で辞めた。こういう時にしか泳ぐ機会が無いのである。
「プール開きにウキウキするって、子どもじゃん」
そんな俺の楽しみを嘲笑うような言葉を放ったのは、同じクラスの白石という女子だった。
女子と言っても男子ばかりの工業高校で二年ちょっと過ごしてきた奴なので、最近流行りのふわふわ系って感じでは無い。人間を女子か男子のいずれかに分類しなければならないのなら、白石の場合、どちらかと言うと女子っていうだけだ。
「うるせーなあ、プールは楽しいだろ」
「全然楽しくないし。スク水だっさいもん」
「安心しろ。誰もお前の水着には興味無い」
「サイテー」
「ははは」
俺も白石もその他のクラスメートも、こういう会話は慣れっこであった。その場の全員がくだらない冗談の言い合いに笑い、この後は何事も無く水泳の授業が行われると信じていた。
実際、何か事件が起きたのかと問われればノーだけど。授業中に誰かが溺れたり怪我をしたわけでは無いからだ。
ただこの時は、ほとんどの生徒は俺ほどでは無いにしても水泳を楽しみにしていたと言える。
「よし行くか!プールに!」
「気合いがすげえ」
「おうよ。ノリにノッてんぜ」
水泳は隣のクラスと合同で行われるので、水着姿の男が多数揃うという微妙な光景たけれども。運良く天気もいいしプール日和だ。まあ授業だけど。
ひとまず男女に分かれ、更にクラスごとに分かれて整列しなければならないのでプールサイドを歩いていると、入口付近にあるテントの下で座り込んでいる生徒を発見した。
「……あ?白石、泳がねーの?」
白石が制服のままで呑気に座っていたのだ。今日の様子だと体調が悪いようには見えなかったのだが、水泳は見学するらしい。
「泳がなーい」
「勿体な。天気いいのに」
「泳げないんだもん」
「マジかよ。運動得意なくせに」
「違うそうじゃない」
俺はしばらく白石の言う意味が分からなかった。白石はカナヅチなわけでは無いらしいし、体調が悪そうでもないのに今日の水泳は見学。首を捻って思考を凝らし、ようやく答えに辿り着いた。女子にだけ与えられた例の事情がある事を思い出したのだ。
「ああー……」
「すぐ分かれバーカ」
「はっ? 口わっる」
「バーカバーカ」
見学のくせにあまりにも口が達者である。一丁前にか弱い女を装いやがって、と言ってやりたかったが集合の笛が鳴ったのでそれは叶わなかった。
それからは俺の期待したとおり授業が始まりプールに入り、炎天下の授業だったのでとても気持ち良かった。俺以外の生徒も泳ぐのは久しぶりだったようで、今日は順番に軽く泳いで終わり。感覚を取り戻し始めたところで今日の水泳はあっという間に終わった。
「……あれ。白石いねーじゃん」
またプールサイドを歩いていると、テントの下に誰も居ない事に気が付いた。ここには白石が座って見学していたはずだけど。不思議に思っていると他のクラスメートが話し始めた。
「ああ。なんか体調悪くて保健室だって」
「保健室ぅぅ?」
「顔、青いっつーか白かったよ」
さっき見かけた時は確かに健康的に見えたのだが。そんなに一気に悪くなるものか?自分には全く分からない。が、保健の授業やテレビの情報などで知った情報によると、男には想像も我慢も出来ないような事態に陥る事がある……らしい。
いくら活発で口が達者で可愛げのない白石でも一応女なんだもんな。全然見えないけど。外見はそりゃあ、普通に女子だけど。
「……失礼しまーす」
何故だか俺は昼休みに入った時、食堂では無く保健室へと足を運んでいた。あんなに元気だった白石が本当に、見学もしていられないほど体調を崩すなんて信じ難かったので。水泳は二限目だったし、三限目も四限目も戻って来れないほど酷いのかと少し気になったのもある。
扉を開けると中には特に誰もおらず、とても静かな空間だった。ただ奥にはパーテーションで仕切られた場所があり、そこにベッドが二台あるのを俺は知っている。利用した事は無いが。
もしかして白石がそこに寝ているのではと思い、俺はゆっくりと足を進めた。そして、そっとしておけばいいものを、パーテーションに手を掛けてそろりと中を覗いてみた。
「……もしもーし……」
「誰っ!?」
「イデッ!!」
顔を出した瞬間に鋭い痛みが走り、反射的に声を上げてしまった。 なんと拳を握った白石がベッドから脚を下ろしているではないか。そして、涙目の俺を見てキョトンとしていた。
「なんだ鎌先か」
「なんだじゃねえ!しっかり顎にキメやがって割れたらどうしてくれんだよ」
「割れたらくっつけてあげるじゃん」
「いらんわ」
なんだこいつ、体調悪かったんじゃねえのかよ。今のパンチはかなり効いたんだけど。
「なんか用?先生さっき出て行ったけど」
「いや別に先生に用があるわけでは」
そこまで答えて、俺はハッと口を閉じた。先生に用が無いのに、どうして保健室なんかに来ているんだと思われるに決まっているからだ。
咄嗟に「部活で使う医療品を貰いに」とか言えれば良かったのだが頭が回らず、俺は「あー」とか「うー」とか言いながら不自然に室内を見回す羽目になった。当然そんな様子を見れば白石にも分かってしまったらしい、俺がどうして保健室に来ているのかって事が。なぜなら白石がとてもニヤニヤしながら俺を見上げているからだ。
「……ふーん?」
「やめろ」
「ふぅーん」
「違う」
「何が違うのかな」
「テメェくそ体調不良なんて嘘だろ」
「さっきまで超気持ち悪かったんだもん。私、夏になると生理痛ひどくて」
何気なく言われたその言葉に、俺はまた口を閉じてしまった。
生理痛。男の俺には馴染みの無い単語だ。しかしこのまま生き続けて男女交際をしたりいつか結婚したりするうちに必ず関わる事になるであろう、生理痛。でも今は女子だけの神秘に触れてしまった気がして、気付かぬうちに顔が赤くなっていた。
「おやおや。ウブな鎌先くんには刺激の強いワードだったかな?」
「うるせぇな!お前が急に女ぶるから」
「ぶるって言うか女だし」
当たり前に返された言葉に「調子乗んな」と言おうとしたが、やめておいた。今だけ確かに白石の事が女子に見えてしまったのである。
「ようやく女の子に見えた?」
その俺の心を見透かすように、白石がニンマリとして言った。
しかもそのニンマリがただ嫌味ったらしいんじゃなくて、心無しかいつもと違う雰囲気を纏っているように見えたので、俺は調子が狂いまくりだ。お陰で声が裏返りながら「見えてねえーっつの」とぶっきらぼうに答えた。
「ふうーん……、」
その時、ベッドから降りようとしていた白石の声が途切れた。俺は白石から視線を逸らしていたので何が起きたのか分からず、ちらりと見やるとお腹を抱えて丸くなっている白石が。しかも肩が上下に揺れている。とても苦しそうに顔を歪めながら。
「おい」
「ちょ、お腹……いたい……」
「え」
「いたたっ……」
「……あ、アレか?生理痛か?こういう時どうすればいい!?」
生理痛というものが何をすれば和らぐのか全く分からないけれど、とにかく本人に解決策を聞くしかない。とりあえず背中を擦り屈んでみると、俯いた白石の顔が少しだけ上がった。そして、
「うっそぴょーん」
……と、めちゃくちゃ元気そうな声で言い放たれた。途端に芽生える大きな羞恥心と確かなイライラと、かすかな安堵。
「てめえ……」
「教室もーどろっと」
「マジ覚えとけ」
「言われなくても覚えとくよん。せっせせせせ生理痛か!?って焦ってた顔」
「忘れろ!!そんな噛んでねーし!」
必死に喚く俺の姿があまりにもおかしかったのか、白石はきゃっきゃと笑いながら廊下に出た。教室に向かう足取りは軽いので、本当に体調は良くなったようだ。良くなったなら、さっきの不謹慎な嘘について少しくらい怒鳴りつけてやっても誰も怒らないよな。