相容れず愛射る
高校卒業と同時に私は東京を出た。東京産まれの東京育ちだったし、別の地域はどんな感じなのかなぁと思ったから。人が多いのも疲れたし一人暮らしに憧れたからって言うのもある。
だけど一番大きいのは、高校時代を忘れたかったから。正確に言うと、好きな人を忘れたかったからである。
『ゴールデンウィーク集まろう!』
しかし三年間マネージャーとして関わってきた野球部の仲間とは簡単に縁は切れない。切りたいわけでもないし。ただ、心の整理がつくまでは会いたくなかったのだ。
それでも会って話をした方がいいだろうと思えたので、私は帰省中の家から電車に乗った。集合場所にしている駅には到着した。それなのに集合時間の直前、私は勇気を失ってしまったのだ。『体調崩した』と嘘のメッセージを送り、みんなとの集まりには参加しない事にした。
ドタキャンなんて自分でも最低だと思う。呆れ果ててしまい、しばらく私は駅前のベンチに座ってぼんやりしていた。予定は特にない。あったけどドタキャンしたから。親には「野球部のみんなとご飯に行く」と行っているので、あまりに早く帰りすぎるのもおかしい。時間を潰して少し経ったら電車に乗ろう、と思っていた。
「あのう、おひとりですか?」
どれくらい時間が過ぎただろうか、ふと頭の上からこんな声が振ってきた。顔を上げると見知らぬ男の人が私を見下ろしている。人違いだろうか。でも、彼は真っ直ぐに私を見ていた。
「……私ですか?」
「そうそう。誰か待ってんのかなーと思ったけど、ずっと座ってるから」
もしかしてナンパというやつだろうか。私みたいなのでも一人でぽつんと座っているだけで声を掛けられるなんて、夜の駅前は恐ろしい。
「……誰も待ってないです」
「ほんと!じゃあよかったら飲みにでも」
「いや、未成年なので……」
「気にしてないから大丈夫」
あまりの事に少しイラッとした。そもそも今はひとりにしておいて欲しい。もうすぐ帰ろうと思っていたのに。しかも未成年にお酒を飲もうだなんて、「気にしてない」って言われても私は気にするんですけど。
「気にしてください」
その時、私の心を代弁するかのような声が響いた。ぴしゃりとハッキリ言い放たれた言葉に、相手の男性は面食らっている。私も目を丸くした。私とその人との間に、よく知る人物が割って入ったのだから。
「…あれ、え。おひとり…ではない」
「無いです。すみませんけど」
「あ、あー……」
男の人は私ともう一人の顔を交互に見ていたけれど、やがて色々察したのか会釈をして去っていった。礼儀があるのかないのか分からないナンパである。しかしすぐにそんなのは気にならなくなった。小湊春市が、ようやく私のほうを振り向いたからだ。
「何してるの」
春市は相変わらず、高二の時に切った前髪の長さを維持していた。大きくて力強い目。それは怒っているようにも見えるし、呆れているようにも哀しんでいるようにも見える。ひとつの瞳に多種多様な感情を映す事のできる、彼特有のものであった。
「……何もしてないよ」
「なんで集まり、来なかったの?」
「用事が出来たから」
「偶然同じ駅で?別の用事が?」
意地悪な聞き方である。私がずっと時間を潰していたのを、分かっているような言い方だ。
「……春市に会いたくなかった」
ぽろりと言った言葉は嘘じゃない。春市に会ってどうすればいいか分からなかった。気まずくなりそうだったから、行くのをやめた。せっかく一緒に集まる他のメンバーに気を遣わせるくらいなら、行かないほうが良い。会わないほうが良いと思って。
「ショックなんだけど」
春市はあまりショックを受けていない様子で言った。
「会って何言えばいいか分かんなかった…」
「そっちが本音ね」
「……うん」
「それならいいけどさ」
そして、彼は私の隣に腰を下ろした。両脚の間で組んでいる手がちらりと見える。ほんの数ヶ月ぶりなのに、いまさら成長期なんて来ないだろうに、少し逞しくなっているように感じた。
「みんな寂しがってたよ。すみれに会うのも久しぶりだからって」
「卒業式で会ったじゃん。たった二ヶ月ぶりだよ」
「充分久しぶりだよ。僕たち毎日一緒だったんだから」
三年間、私は寮生活ではなかったもののほぼ毎日一緒に居た。マネージャーとして、インフルエンザになった時以外は皆勤だったし。春市は元々自己管理に長けていたので体調を崩すこともなかった。本当に毎日、春休みもゴールデンウィークも夏休みも冬休みも、同じグラウンドで過ごしてきたのだ。そう考えれば彼らに会わなかったこの二ヶ月は長かった。
「そのわりに早めにお開きになったんだね」
「まあね。みんなお利口だよね、そういうとこ」
春市は小さく笑っていた。「お利口」という言い方は少し皮肉っぽくも聞こえる。昔から春市の言葉には時々毒があったっけ。そのぶん真っ直ぐな時もあった。真っ直ぐ本音を言ってくれる事のほうが多かった。それは卒業式の日も。
「春市」
いつかは言わなきゃと思っていた事を今、言わなければならない。春市に会わず、逃げてしまうのは良くない。偶然なのか狙っていたのか今日会ってしまったのだから、言わなくては。
「卒業式のとき……」
そこで私の言葉は止まった。春市がじっとこちらを見ているから。続きを言うのが恐ろしくて申し訳なくて、ぴたりと止まってしまったのだ。ぎゅっと口を閉じた私を見て、春市は首を振った。
「気にしてないよ」
「嘘、してるでしょ」
「しない事にした」
「って事は、」
「ほんとは凄く傷付いたし今も根に持ってる」
春市は一息でそう言うと同時に、私と目を合わせた。
やはり傷付けたのだ、この人の事を。
当たり前だ。恨まれたって仕方がない。卒業式で呼び出され、春市は包み隠さず私に気持ちを伝えてくれた。それに応えないままうやむやにして今日まで過ごしてきた私を、誰が許せると言うのだろう。
「……ごめん」
「今更いいよ。僕が言うのが遅すぎたんだから」
そうじゃない。遅いとか早いとか。春市は私と離れ離れになるのを分かっていながら好きだと言ってくれたのに、怖くて逃げた私が悪いのだ。
「ごめん春市」
「もういいって。惨めになっちゃう」
「違うのそっちじゃなくて!私、あのときちゃんと言えばよかった」
これから先の住まいがどこであろうとも関係ないと言えれば良かった。春市がそうしてくれたように。
「私も春市のこと、ずっと好きだった」
右手を伸ばした先には、春市の拳。それを上からぎゅうっと包み込んで、卒業式の日に伝えられなかったぶんだけ気持ちを伝えようと力を込めた。中性的な顔立ちのくせに中身は立派な男の子で、背は私よりも高く、手は思いのほかごつごつしている。そんな春市のことがずっとずっと好きだった。
「……なんで今言うの」
春市は私の言葉を聞いて驚いた様子は無かったので、きっとバレていたんだと思う。でも、どうして今日まで言わなかったのかは不思議に思っているようだった。
「それは、だって……これから会えなくなるのに、両想いだなんて辛すぎるって思って」
「でも、いま会えたじゃん」
「二ヶ月ぶりだよ!?」
「たった二ヶ月って言ったのはすみれだよ」
「でも……」
確かに私はさっき、春市の「久しぶり」という言葉に対してそう言った。卒業式ぶりの、たった二ヶ月ぶりではないかと。そして、それについて春市はこう答えた。
「私たち、前は毎日会ってたんだよ」
そう考えれば二ヶ月というのは相当な時間だ。春市と毎日顔を合わせていた日々は、「いつか言おう」「今日はやめておこう」ばかり考えていた。卒業が近付いているのを感じていたにも関わらず。
そしてついに卒業し、空いてしまったこの二ヶ月間。今になって告白の返事をするなんて遅いに決まっている、けど。
「どうって事ないよ、二ヶ月なんて」
「うそ」
「全然なんとも思わない」
春市は私を怒る様子はなく、むしろ笑っていた。
「だって僕ら、二ヶ月のあいだ全然会ってないし連絡も取らなかったんだよ」
「……」
「でも、僕は未だにすみれが好き」
私の手の中で、春市の拳が解かれた。そして今度は私の手が優しく覆われていく。
「ほんの数ヶ月の時間なんて、好きな人を忘れるには到底足りないんだよ」
それからギュッと、私の力よりもずっと強く握られた。痛いくらいに力強く、もう絶対に離さないと言われているかのような目で。
「……ゴメンなさい」
「え。もしかして僕振られるの」
「ちがうっ」
私はぶんぶんと首を振った。この人の想いを無下にするなんてとんでもない。
「好きって言うの、遅くなってゴメンなさい」
それから、待たせてごめんなさい。 答えを出さないまま引っ越してごめんなさい。春市には謝らなきゃいけない事ばっかりだ。
「遅くないよ。二ヶ月くらい」と春市は私を抱き締めてくれたけど、今日の約束を直前になってキャンセルした事だけは皆に謝っておくように言われた。まあ、それも一緒に謝りに行ってくれるらしいんだけど。