形ないものの壊し方
ひりひりと痛む手のひらで、ぐしゃぐしゃになった制服を掴む。「シャツ出し禁止」と校則では決まっており、普段はそれを守っているのに、今の私は完全にスカートからブラウスが出ている。でも意図的じゃない。ついさっき、ほんの数分前に彼氏によってブラウスを引っ張り出されたのだ。
全速力で駅まで駆ける脚も痛くなり、だんだんと息が上がってきた。よく見るとブラウスのボタンがひとつ千切れている。予備のボタンがどこかにあったっけな、と変に冷静な事を考えたりもした。無理やり冷静にでもならなきゃやってられない。まさか二口が、私の了承無く襲ってくるなんて思いもしなかったんだから。
「ただいま」
「おかえり…あれ?今日は二口くんちでご飯呼ばれるんじゃなかったの」
まだ日が落ち切っていない時間に帰ってきた私を見て、お母さんが言った。
乱れた制服はちゃんと着直したけど、時間は誤魔化せない。だけど二口との間に何が起きたのかを知られるのは、あまりにも恥ずかしい。だから私はシレッと嘘をついた。
「食べてきたよ」
「あ、そうなの。早かったね」
「うん」
「何食べさせてもらったの?」
「えっと…ハンバーグ」
とりあえず自分の好物を答えた私に「すみれの好きなもの出してくれたのね」と感心するお母さん。本当は何も食べてないから、お腹が減って仕方ない。
ひとまず荷物を置いて私服に着替え、自室の中で今日の事を色々思い返してみた。二口の顔とか言葉とか、時分がどのように拒否したのか。そして明日からの関係について真剣に考えようとしたけど、やっぱり空腹には勝てなかった。
「…コンビニ行こ」
起き上がった私は、家族へは「雑誌を買いに行く」という口実でコンビニへと出掛けた。実際、近所のコンビニでは時々立ち読みしたり雑誌を買ったりしているから。
今回はご飯が目的だったので、サンドイッチやおにぎりなどの食料品が並んでいる場所に向かってみると、仕事帰りの大人が多く立っていた。まだ商品のラインナップには余裕がありそうだ。
私は一旦他の商品を見てみようと思い、暇潰しに雑誌コーナーへと歩いた。そこには時々購入するティーン向け雑誌の新しい号が。自然にそれを手に取って、今月号では何が取り上げられているのだろう?と表紙をぼんやり眺めていると。
「セックス特集…」
思わずゴクリと息を飲んだ。自分と同世代の女の子が、セックスについてどのような価値観を持っているのか全く知らないのだ。皆、彼氏とどんな事をしてるんだろう。皆は彼氏が無理やり抱いてこようとした時、どうするんだろう。
ページをめくっていくと最初に目に入ったのは「付き合ってからエッチするまでの期間は?」という項目で、その回答を見て驚いた。一ヶ月、一週間、一年間、女の子たちの回答は様々であったけれど。多くは比較的早い段階で身体の関係を持っているようだった。回答者のコメントや男の子側の意見も載っていたりして、私は食い入るように記事を読んだ。結果的に得られた答えは、「三ヶ月はやや待たせすぎ」という事である。
「……私が変なんだ…」
二口が私に触ろうとしてきたのは、普通の事なんだ。
私たちは付き合ってちょうど三ヶ月経ったところで、まだキスまでしかしていない。そのキスですら照れくさくて、うまく出来ていない自覚がある。だけど世の中の女の子は、三ヶ月も付き合えば身体を許しているんだ。決して「早い」とも「遅い」とも思わないけど、ついに私もそういう時が来たのだと思い知らされた。裸になって身体を重ねるなんて遠い未来の事だと思ってて、全く考えていなかった。
更に読み進めていくと、男の子からの意見も沢山書かれている。「好きな子だから触りたい」「男から誘うのを待たせてるんじゃないかと不安」「彼女の全部を知りたい」、全部納得できるし理解できるものばかり。私は張り手をしてまで拒否してしまったのに。二口もこんな風に思っていたのだとしたら、私はそれを踏みにじった事になる。
「!」
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。中を開けば二口からのメッセージが来ており、そこにはたったの三文字で『ごめん』とだけ。さっきまで怒りと戸惑いで一杯だったのに、二口に文句を送り付ける気にはなれなかった。だからと言って上手い返信も浮かばずに、そのままスマホをポケットに戻した。
◇
二口からのメッセージを既読無視したままで迎えてしまった翌日。私から話しかけるべきか、話しかけられるまで待つべきか悩んだ。昨日の事に触れるかどうかも。二口は私を怒っているかも知れないし、どうしよう?そう思っていた矢先、なんと二口のほうから「オハヨ」と挨拶をしてくれた。
どんなに救われた事だろう、二口から話しかけてくれた事に。私は安堵してしまい、「おはよ!」といつもよりも元気な声で返事をしてしまった。…さすがに彼も驚いた様子を見せた。でも、このまま勢いよく貫き通せば元に戻れるかも。昨日の出来事で二口を悲しませてしまったのなら、私が「気にしてない」という素振りを見せる必要があった。だから私は二口に「髪跳ねてるよ」なんて指摘してみたり、普段通りを装う事に徹したのである。
一限目から四限目までは、特に二口と関わる機会は無かった。席だって離れているし、三限目は男女別での体育だったし。休憩時間は互いに同性の友人と過ごしていたから。工業高校なので女子は少ないけど、休憩だからって彼氏とばかり過ごすのも気が引けるので。
だけど、どうしても二人で話したい。昨日の事をきちんと謝ったほうが良い気がする。無かった事には出来ないし、私たちもいずれは一線を越えるのだから。
「お昼たべよ」
昼休みになり、私は思い切って二口を誘った。いつもお昼ご飯は一緒に食べるけど、今日ばかりは誘うのに相当な気合を入れた。二口も二口でまさか私のほうから誘われるとは思っていなかったらしく、間抜けな顔をしていた。
「お…おう」
「屋上いく?」
「屋上?…ああ…食堂とかは?」
「屋上がいい」
いつもは屋上なんて絶対に嫌なんだけど、今日は誰にも話を聞かれない場所が良かった。教室内とか食堂で、私たちだけのそういう話を聞かれたくない。二口もなんとなく理解してくれたようで、一緒に屋上への階段を登った。
「昨日、ごめん」
屋上に出て扉を閉めた瞬間に、私は謝った。早めに解決したくって。あと、自分の気持ちを早めに楽にしたかった。二口を傷付けたかもしれない、その罪悪感から逃れたかったのもある。
ひどいなぁと思う。「自分の感覚が皆と違うだけだった」と分かったからって、コロッと態度を変えるなんて。でも謝りたいのは本当だ。
「私、思わず嫌がっちゃって…」
唇とか、露出している箇所以外を触られるのは初めてだったから。昨日は単純に驚いた。二口の事を怖いとも思った。でも、怖がっちゃいけなかったんだ。恋人なら普通の行為なんだもん。
ぽつりぽつりと話す私を見下ろしていた二口は、「今更なんだよ」と怒るかもしれない。…と思っていたけど、彼はちっとも怒らなかった。それどころかとっても落ち着いた声で、でも少し呆れたように言った。
「…なんでお前が謝ってんだよ」
「だって」
「俺が全部わりーんだよ」
なんという事だろう、二口は自分の事を責めているのだ。私が昨日「だいっきらい」なんて言ったから。「触んないで」と突き放したから。やっぱり私のせいじゃないか。
「…ごめん。昨日はびっくりしただけで」
「謝んな」
私の言葉を遮って、二口が言った。苦しそうな表情を隠すように、顔を背けながら。また「ごめん」と言いそうになったけど、謝罪は彼を更に苦しめるだけだ。私はようやく頷いた。そして、頷く私を見て二口もやっと深く息をついた。
「ごめんな」
そして、吐いた息と同時に謝罪の言葉。昨日だってメッセージで謝ってくれたのに。それを無視したのは私なのに。それに、私に謝るなと言うなら二口だって謝る必要なんか無い。
「二口こそ謝ってんじゃん」
「完全に俺が悪かったろ」
「……」
「俺、怖がらせたと思うし」
「ち…ちょっとだけだよ」
「違うよ、分かれ。ちょっとでも怖がらせたら彼氏失格なんだっつの」
二口の口から「彼氏」という単語が聞こえてドキッとした。昨日のあれはやっぱり性欲に任せて起こした行動じゃない。二口は私の事を好きだから、ああなったのだ。雑誌に書かれていた男の子の意見のように。「好きな子だから触りたい」「彼女の全部を知りたい」と思ってくれていたから。
「…あそこまで嫌だとは思わなかった。白石がちゃんと心の準備出来るまでは、我慢すっから」
だけど二口は、自分が悪いのだと思い込んでいるようだった。二口はちっとも悪くなくて、ただちょっと言葉足らずだっただけだと言うのに。今後また同じような事をする時、つまりセックスをする時には、私に心の準備が出来るまで待ってくれると言う。
「……準備…」
「だから白石が良いって言うまで、俺はもう何もしない」
何もしない。そう言った二口の表情からして、その意思はとても硬いようだった。
「……いいの?」
「いいよ。つーかそれが普通だろ」
「そうかな…」
「昨日は俺が焦り過ぎてた」
これ以上この話を長引かせると、二口は罪悪感のせいで消えて無くなりそうだ。彼を苦しめるのは本意じゃない。私も悪かったし、二口もちょっと無理やりだった。お互い悪かったんだという事で、これは終わりにしよう。元の私たちに戻ろう。
「…つうワケだから。悪かったな」
二口は最後にもう一度謝って、持ってきたお弁当袋の中身を広げた。
私も昼食を食べるためにお弁当箱を出してみるけど、その間どちらも口を開かなくて、無言がとても辛かった。まだ私の様子を伺っている気がする。私のほうから普段の態度を見せなければ、二口はずっと気負い続けるかもしれない。
「まだ陽が当たってると暑いね」
私はわざと、全く別の話題を出した。いつもの声で、なるべくいつもの顔で。二口は一瞬ポカンとしたものの、さっきまで硬かった表情が和らいだ。
「…だな。日焼けするわ」
「焼ければいいじゃん!男なんだし」
「もれなく白石も焼けるだろ」
「あ。あー、そっか」
一緒に居たら私にも日が当たってしまうのか。こんがり焼けるのはちょっと困るけど、少しくらいなら全然構わない。暑いのも我慢できるし、眩しいのも平気。二口と一緒に居られるなら、元通りに仲良く出来るなら。
「まあいいや。ちょっとくらい」
「ホントかよ。倒れんなよ」
「大丈夫だもーん」
そうして私たちはやっとお弁当に手をつけ始めた。よかった、いつも通りだ。これでまた徐々に距離を縮めていって、そのうち二人きりになったらキスをして、その時には二口を受け入れよう。
もう拒否しないよ、いつでも大丈夫だよと証明するために、私は二口に笑顔を向けた。