隠れた心をめしあがれ
一週間が始まる月曜日は、嬉しいような憂鬱のような複雑な気持ちになる。毎週毎週必ずだ。仕事に行くのが辛いけど、行きたい理由もちょっぴりあるから。
「白石さん、朝一番で悪いんだけどコーヒー買ってきて」
出勤すると、時々こういう事がある。
頼まれ事をするのは苦ではない。だけど私の同期や後輩だって近くに居るのに毎回私に頼む理由は、私が一番仕事が遅いからなのだろう。同期の中では私だけが女だし、大事な事はあまり任せてもらえない。雑用とか、誰でも出来る仕事を振られる事が多いのだった。
「分かりました」
「ミーティングまでにね!」
「ハイッ」
でも私は、自分の現在地がどこなのかを分かっているつもりだから。文句を言わずに買い物を引き受けた。十五分後に開始される会議のために、参加者十数名ぶんのコーヒーを買って来なくてはならない。ぎりぎり持てる範囲かな、と思って執務室を出ようとした時。
「あ、」
ちょうど入口で出くわしたのは、二年先輩の岩泉さんだった。私が仕事に来る理由は、半分くらいこの人だ。つまり勝手に片想いをしている。その岩泉さんは財布を持って出掛けようとする私を見て言った。
「…どこ行くんだ?もうすぐミーティングだぞ」
いつもの事だけど、あまり愛想のよくない声で。
私は岩泉さんの事を仕事が出来て格好良くて素敵な人だなあと思っているけど、たぶん岩泉さんは私の事を好きじゃない。態度が他の社員とは違うのだ。私と話す時だけニコリともせず、怒っているのかなと疑うような時だってある。
「えっと…あの…コーヒーを、買ってこいって」
「コーヒー?」
「岩泉!ちょっといいかー」
「あ、うっす」
中から課長の呼び声がして、岩泉さんが返事をした。彼は課内の人気者なのである。
「ひとりで行けんのか?」
てっきり課長の元へ直行すると思ったけれど、岩泉さんは私に向けて言った。決して笑顔でもなく、むしろ睨んでいるかのような目で。だけど岩泉さんが心配してくれてるのはなんとなく分かった。…心配って言うより、私が買い出しひとつまともに出来ない女だと思っているのかも知れないけど。だからあまり喜べない。
「持てます、大丈夫です」と答えると、岩泉さんは首だけで返事をして引っ込んでしまった。ほらね、やっぱりただの社交辞令かも。
だけど残念がっている暇はない。急いでエレベーターに乗り、ビルの下にあるコンビニでホットコーヒーを注文した。カップに一杯ずつ入れていくので時間がかかり、通常は三つある機械が一つ故障していたのでいつも以上に大変だった。
砂糖とコーヒーフレッシュを全員分袋に詰めて、コーヒーも何とか袋に入れる。両手が塞がってしまうのはいつもの事。脇に財布を挟んで、大急ぎでエレベーターに乗る。フロアに着いたら早足で会社に戻り、課長や岩泉さんの居る会議室へ。ノックをしてから中に入り、まずは課長の前にコーヒーを置く。
「お待たせしま……っ」
早くしなきゃ冷めてしまうので、 私は少し慌てていた。少々ぬるくなったからって怒られる事はないのだけど、何故だろう。課長の手元にコーヒーを置こうとした時、つるんと手が滑ってしまったのだ。
「うおっ!?」
「!!」
さあっと血の気が引いた。蓋が閉まり切っていなかったのか、ぱかっと開いたカップからは勢いよくコーヒーがこぼれる。真っ黒なそれが課長の手にかかり、課長は再び悲鳴をあげた。
「あっつ!」
「す…すみませ、汚れてませんか!?」
「いや、て言うか…あっついマジで」
「ごめんなさ……」
「誰かティッシュ!」
私はもう何かで課長を拭くとか机を拭くとか残りのコーヒーを配るとか、何をすればいいのやら分からなかった。誰かがティッシュを持ってきて、誰かが課長に差し出すのを呆然と眺める。もう最悪だ、本当に最悪。一杯のコーヒーすらまともに配膳できないなんて。
「……あの…あの」
「大丈夫だから。白石さん、もう下がってていいよ」
「でも…コーヒー買い足してきます」
「あ。俺要らないんでどうぞ」
台無しにしてしまった課長のコーヒーを、せめてもう一度買いに行こうとしたのだが。なんと岩泉さんが、自分のコーヒーを課長の前に置いた。
「…岩泉、要らないのか?」
「大丈夫です。俺、冷たいのが好きなんで」
「おー。じゃあ貰っとく」
課長は軽く返事をすると、綺麗になった机の上でミーティング資料を開き始めた。
もうこの部屋で私に出来ることはない。頼まれる仕事もない。誰の目にも入らない隅っこで会釈をして、私は部屋を出た。
やっぱり一人じゃなくて、誰かと一緒に買いに行く方が良かったろうか。蓋をちゃんと閉められていなかったのは私のミスだ。急いでたせいもあるかも知れないけど。それに、ゆっくり置けば良いものを、急いで課長にコーヒーを渡そうとしたからああなった。
「……」
考えれば考えるほど憂鬱だ。岩泉さんは「冷たいのが好き」なだけで、ホットコーヒーが嫌いなわけじゃないだろう。私のせいで岩泉さんだけコーヒーが無しになってしまい、ただでさえ脈無しなのに辛すぎる。
朝からこんな事になるなんて今日は運が悪い。まだまだ良くない事が起こりそう。どうかこの後は、今日一日が平穏に終わりますように。
「白石さん!頼んどいたコピーまだ?」
昼休憩の少し前、とある先輩が言った。その声色からしてマイナス感情が含まれている事はよく分かった。だけど昨日頼まれたコピーと製本は、昨日のうちに終わらせている。
「…ええと、デスクに置かせてもらってたんですが…」
「これじゃないよ!来年度版を印刷してくれなきゃ」
「え、」
顔の前に突き出された資料の表紙を見てみると、確かに今年度の内容であった。うそ、来年のぶんが必要だったの?そんな事言ってたっけ。でも、よく考えたら今さら今年度の資料を新たに印刷したって意味が無い。少し考えれば分かる事だったのに。
「す、すみません…」
「早く早く!」
「はいっ」
今朝に引き続き、またまた私は大急ぎで作業に取り掛かった。
パソコン内の共有フォルダから必要な資料のデータを出し、今度こそ内容が間違いないのを確認する。それから印刷ボタンを押して、印刷部数は三十部。時間を無駄にしただけでなく、私は資源も無駄にしてしまったのだ。それにも凹みながら印刷が始まるのを待っていたけど、なかなかプリンターから用紙が出てこない。紙かインクが切れているのだろうか。そう思ってプリンターの画面を確認すると、そこには「紙詰まり」の文字が。
「あーもう、なんで今…っ」
「何してんだ?」
プリンター横に置いてあった説明書を開こうとした時、後ろから低い声がした。今朝も聞いた、愛想のない声。だけど私の好きな声。
「…岩泉さん」
「コピーしたいんだけど…」
恐る恐る振り返ると、岩泉さんが何かの紙を持って立っていた。今からそれをコピーしなければならないらしい。
また私のせいで岩泉さんに迷惑をかけてしまう。お近付きになりたいのに、汚名返上のチャンスが全く巡ってこない。
「ごめんなさい私、詰まらせちゃって…すぐ直すのでっ」
「紙詰まりか。見せてみ」
「え、でも」
「俺がやったほうが早いだろ」
岩泉さんは持っていた紙を私に預けて、複合機の紙詰まりしている部分を開けた。
おっしゃる通り、私は紙詰まりを直したことが無いので役に立てない。経験豊富な岩泉さんのほうがずっと早い。けど、面と向かって「約立たず」と言われたような気分になってしまった。
「……はい。すみません」
私の声はとても小さくて、今にも泣きそうに震えていた。実際に涙は出ていないけど、好きな人の前で恥ばかりかいてしまっては、大泣きしたい気分でいっぱいだ。だけど岩泉さんは、あまりにも落ち込んだ私の声を聞いてぎょっとしたらしく。
「あー…そういう意味じゃないんだけどよ、なんつーか」
などとボソボソ言いながら、複合機を弄っていた。面倒くさいって思われたかも。ちょっとした事ですぐ泣きそうになって、指示された事すら正しく出来ない私の事を。
やがて複合機から起動音が鳴り始め、どうやら正常な状態に戻ったようだ。それを確認した岩泉さんは無言で私に手を出し、私は預かっていた紙を彼に渡した。
そのまま複合機に向き直って岩泉さんがコピーを始める、と思いきや、岩泉さんは自分の席に戻ろうとするではないか。
「急ぎだろ。先に印刷しろよ」
帰りざまにそう言って、岩泉さんは踵を返して行ってしまった。
私が印刷を失敗したのを聞いていたのかも知れない。極めつけに複合機を紙詰まりさせて踏んだり蹴ったりな私に、気を遣ってくれたのかな。
岩泉さんが自席に着くまでその姿を眺めていたけど、ぼんやりしてる暇はない。早く資料を印刷しなきゃ!今度は怒られるどころじゃ済まされないかも。
◇
結局、あれから大量の印刷や製本をしたおかげで昼休みをとる事ができなかった。元はと言えば自分のミスが原因だし、他の人は忙しそうだし、ひとりでやり直したのだ。
何とか終えたものの私はくたくた。 他の仕事も他人より時間のかかる私は、一時間の残業となったのである。
「おなかすいたぁ…」
退勤後、誰も居ないエレベーターホールでぽつりと呟く。
家の冷蔵庫には何が入ってたっけ。ラーメンでも食べて帰ろうかな。でもなるべく無駄遣いしたくないし、家まで我慢しようか。ああ今朝お米セットするの忘れたんだっけ…と、頭の中でぐるぐる色んな事を浮かべていると。
「白石」
「はいっ!?すみません!」
背後から名前を呼ばれて、反射的に謝った。今日は呼ばれる度に怒られてばかりだったから。しかし今私を呼んだ岩泉さんは怒るつもりじゃ無かったらしく、私が何故謝罪したのかと不思議に思っているようだった。
「…まだ何も言ってねえけど…」
「え…あ。いや、私また何か失敗したのかと思って…」
「今日は散々だったもんな」
「……はい」
今朝のコーヒー事件からずっと岩泉さんには迷惑をかけている。いい加減呆れられているだろう。いいところを見せて見直してもらいたいのに、最悪の日だった。おまけにお昼ご飯抜きとは。
「お前、飯食ってねえだろ」
エレベーターの降りるボタンを押しながら、岩泉さんが言った。
「…え?」
「昼。休憩でてないよな」
「あ、はい…コピーしたのをまとめてて」
「だよな。何か食ってくか」
「え??」
そのタイミングでエレベーターが到着し、扉が開いた。
岩泉さんはすぐに乗り込んで行ったけど、私は彼の言った言葉が頭の中でこだまして動けない。今、晩御飯か何かに誘われたのだろうか?いやいやまさか。
「…や、予定とかあるんなら別にいいけど…」
そう言って、なかなか乗ってこない私の様子を伺うように岩泉さんが顔を出した。「開」ボタンを押してくれているらしい。私は慌ててエレベーターに乗りながら言った。
「な、ないです。ないですけど!」
「けど?」
「い…岩泉さんに誘われるとは思ってなくて」
「なんで」
「私、嫌われてるのかと…」
入社してからもうすぐ二年経つけれど、何をやっても上手くいかないし。一年後に入ってきた後輩のほうが要領が良かったりして、頼られている姿を見ると情けないし。
いいとこなしの私はモタモタしてて、岩泉さんの仕事の邪魔をする事だって沢山ある。それに、岩泉さんはいつも私に対して素っ気ないのだ。他の社員には笑顔で接しているのに私だけ。
「…俺、嫌いだなんて言った事ねーぞ」
「そうなんですけど!岩泉さんいつもしかめっ面だし素っ気ないし」
「悪かったな」
「だから、てっきり」
嫌われてはいないにしても、決して好かれているとは思えなかった。だから急に二人きりの今、ご飯に行こうと誘われる意味が分からない。とりあえずは私の事を嫌いだとか、そういう訳ではなさそうだけど。
「…じゃあまぁ、俺ももう少し態度改めるわ」
エレベーターが一階に到着したのと同時に岩泉さんが言った。しかもちょっぴり唇を尖らせて。また私のせいで不快にさせてしまっただろうかと、私は両手をぶんぶん振りながら岩泉さんの後ろを追いかけた。
「そ、そこまでしなくていいです!」
「嫌ってねーのに嫌われてると思われんの辛いんだよ」
「そ、そうなんですか」
「だから飯行こう。二人で」
ビルを出たところで立ち止まった岩泉さんは、最後の部分を強調した。二人で。私と岩泉さんだけで。それはとても嬉しいし、失敗続きだった今日の締めとしては最高だけれども。
「あの、私が…お昼抜きだったから、なんですよね?」
こうして誘ってくれるのは、休憩無しで仕事をしていた私があまりにも哀れだったから。それ以外にわざわざ岩泉さんが私を誘う理由が見当たらない。万に一つの事を覗いては、だけど。
「…その誘い文句は撤回する」
だけど、どうやらその「万に一つ」が存在したらしい。自分の頬が真っ赤になるのを感じ、その私の頬を見て岩泉さんも赤くなっていく。撤回して、それからどうやって誘い直してくれるんですか?と聞いてもいいものかどうか。
迷っているうちに岩泉さんが「酒、飲めるよな」と歩き始めたので、私はそれについて行った。お酒を飲んだら色々と聞いてみる勇気が出てくるかも。月曜日だけど、少しくらい飲んでも今日は許されるよね?