世界からチェリーピンクをかすめ取る
「大人になったら結婚しようね」
そんな幼稚園時代の口約束を叶えたカップルが、この世にどれほど存在するのだろうか。
あの頃はまだ何も知らなかったし、考えていなかった。結婚の約束をした相手が勝手に彼女を作る可能性があることも、むしろそんな約束なんて忘れられている可能性があることも。貴大の目に映る女は私しか居ないはずだと思っていた。小学校卒業くらいまでは。
ところが中学に入ってから身長が伸び始めた花巻貴大は、みるみるうちに女の子の注目の的になった。貴大のことなんて興味もなさそうだったクラスの女子が「最近花巻くんカッコよくな〜い?」とか話してるのはムカついた。でも、鼻高々でもあった。「そうでしょう、貴大は素敵でしょう? 私はずっと前から知ってましたけど」と心の中で吐き捨てた回数は数しれず。
「あんた花巻くんと付き合ってんの」
中二の時、顔しか知らない女の子に突然そう言われてビックリした。「あんた」と呼ばれたのに怒りよりも戸惑いのほうが強くて、声が震えたのを覚えている。
「付き合ってないけど……」
「じゃあなんで一緒に学校来てるわけ」
「え……、家が近いから」
「なんで家近いからって一緒に来るの!」
「……ごめん」
あまりにも理不尽だった。でも、なぜその子があんなに怒っていたのかは理解できた。彼女も彼女で、私の貴大への気持ちに気付いていた。私が貴大と一緒に登校する理由が、「家が近いから」だけではないことに気付いてたんだ。
それからというもの私は貴大と過ごす時間を極力減らすことにした。幼い頃に交わした「結婚しようね」という約束も忘れようと思った。第一、貴大がアレを覚えている様子も無かったから。
「あれっ? すみれ、もう行くの?」
貴大を避けようと思い始めてすぐのこと。登校時間をずらすために早めに家を出たというのに、道端でばったり出くわしてしまった。
それも仕方のない話で、私が学校に行くためには花巻家の前を通らなくてはならないのだ。ちょうど家から出てきた貴大に声をかけられ、思わず「げ」と声に出た。
「ゲッて何だよ。先行くなら言えよな」
「……急に用事できたから」
「へー。最近忙しいんだ」
彼は感心しているようだ。小学校の時も中学生になってからもほぼ一緒に通学していた私が、突然ひとりで時間を早めたりし始めたのを「忙しいから」だと思っている。初めて「先に行く」と告げた時、理由として「図書室でやりたいことがある」と適当なことを言ったせいかもしれない。
今日もソレを口実に別々で通学したかったけど、少し寝坊してしまって結局貴大と同じ時間。しかも貴大は私の隣を涼しい顔して歩いているではないか。
「ちょっ、付いてこないでよっ」
「いや俺も学校行くんスけど……」
「別の道から行けばいいじゃん」
「はー? なんで?」
「なんでもっ」
そんなやり取りを、その日だけでなく何度か繰り返した。わけも分からず情緒不安定になった幼馴染の私を、貴大がいつまでも構ってくれるわけが無く。
「お前ワケ分かんねーマジで」
終いにはこんなことを言われて、見たこともない怖い顔で睨まれてしまった。
それを境に私たちは、互いに少しよそよそしくなった。貴大は中学から始めたバレーにのめり込み始めていたし。お母さんに「貴大くんの応援とか行かないの?」と聞かれて、胸をちくちく痛ませながら「行くわけないじゃん」と返したのも懐かしい。
◇
あれから三年ちょっと経つ。貴大はバレーボールの強豪校に進学するのだと聞いて、てっきり白鳥沢に行くつもりだと思っていたのに私と同じ青葉城西高校だった。あとから聞いた話、白鳥沢のバレー部というのはそこらの選手を簡単には取らないのだとか。取れよ、貴大を。そして私から遠ざけてよ。そうじゃなきゃ頭がおかしくなってしまう。実際、高三になった今まさにおかしくなりそうだ。
「たかひろー」
黄色い声が幼馴染の名を呼んだ。
もちろん私の声ではない。
現在の花巻貴大は、私と同じクラスの鈴木さんという子と付き合っている。鈴木さん以外にも過去ひとりかふたり彼女ができたと聞いたけど、それも人づての話なのでもっと多いのか少ないのかは知らない。貴大が私以外の誰かと付き合うとか結婚とかキスとか何とか、そんな話は知りたくもなければ想像もしたくないのだ。
それなのに貴大の彼女は無駄によく通る声をしているので、恋人同士の会話が私に丸聞こえ。
「ねえ、一緒に帰ろ!」
「あー……悪い。今日部活」
「えーまたぁ?」
「月曜以外は練習つったろ」
私はこれらの会話を聞きたくて聞いてるわけじゃない。私も私で部活に行くため歩いてるのに、その後ろで彼らが話しているから嫌でも聞こえてくるのである。
しかもあんまり仲睦まじい様子がなくて、さすがの私もに同情してしまった。が、鈴木さん本人は大してダメージを受けている様子がなくて、かわいらしく甘えていた。
「もー。いいけどさーあ」
「ごめんごめん。月曜一緒に帰ろ」
「うん!」
週にたった一度のオフの日を彼女との下校に費やす約束をするとは、なんと素晴らしい彼氏なんだろう。とはいえ貴大の部活の休みが月曜日だってことくらい早いうちから分かっているだろうに、なぜ木曜日の今日に誘うのだ。昨日も誘ってるの聞こえたし。
でも、そんなことはどうでもいい。考えたって仕方がないし、私には関係のないことだ。
◇
自分の進学先が貴大と同じ高校なのだと知ってから、私もなにか部活に励もうと考えた。そうすれば貴大のことを考える時間が減るはずだと思って。
結果、それは正解だった。弓道部を選んだ私はそれなりに部活に打ち込めて、大会に出る楽しさや、勝敗によって獲られる色んな感情を勉強できた。弓道は高校から始める人も多かったので、置いてけぼりな雰囲気にならないのも良かった。
そんな私も三年目なので副部長という立場になり、次の大会で引退予定。だから今日も練習していて帰りが遅くなった。どのくらい遅かったかというと、バレー部の下校時刻と重なるくらいの時間まで。
「……よお。部活帰り?」
学校から駅まで歩いていると、後ろから貴大に声をかけられた。私が弓道の弓を持ち運んでいたから「部活帰り?」と聞いたのだろう。
「うん。そっちも?」
「俺らは月曜だけオフなの。今日は練習」
知ってるよ、そんなこと。
とは言わずに「ふーん」と答えるだけにして、私は速度を緩めずに歩き続けた。でも、次のことを言われて思わず緩めそうになった。
「ついてくんなって言わないんだな」
ピタリと足を止めそうになる。貴大の声が低くてびっくりしたのも原因だ。誰かとの会話が聞こえることはあったけど、貴大と直接話すことなんてなかったから。それに、かつて私が彼に放った言葉を思い出させてきたから。
「……言われたいの?」
「んなわけねーだろ」
「言うわけないでしょ、帰る方向一緒なんだから」
「俺もそう思ってたけどね、中学ん時」
刺々しい。ずっと根に持っているようだ。そりゃあ今となっては申し訳ないと思っている。あの頃はまだ、自分の気持ちを生理できなかったんだもん。いきなり「花巻くんと一緒に居るのやめて」みたいに言われて、どうすればいいか分からなかったんだもん。
「……そのことは悪いと思ってるけど……」
本当ならずっと、こんな気まずい関係は断ち切りたかった。高三になった今なら少しは落ち着いて話せるようになったと思うし、弓道を始めてからの私の頭は貴大中心ではなくなっている。
もしかしたら今が仲直りのチャンスかもしれない。名前を呼んで、あの時ごめんねって言って、またフツーに仲良くしようよって言おう。
「貴大」
と、彼の名前を口にしようとしたけれど、残念ながら私ではない別の声が貴大を呼んだ。そのことには貴大も驚いたようで、私たちは同時に声のした方向を振り向いた。
「……と、白石さん」
その子は震える声で私の名前も呼んだ。
ああ、良くないことになりそう。背後で青い顔をしているのは、貴大の彼女である鈴木さんだった。
「里奈。何してんの」
貴大はあまりヒヤヒヤしている様子がなく、いたって普通に鈴木さんを呼んだ。当たり前だけど下の名前で。駄目だ、やっぱりちくちくする。
「なんで二人が一緒にいるの?」
あらぬ誤解を抱いているらしい彼女は、私と貴大の両方を睨んでいた。
面倒くさい。私、何も言わないよ。何も悪くないし。申し訳ないけど中学の時みたいに気の弱い私ではなくなっているので、意味もなく謝るつもりはない。もちろん波風たてるつもりもない。黙ったままの私の横で、貴大は冷静に対応し始めた。
「なんでって……家が近いから」
「近いからって一緒に帰るの!?」
「偶然同じ時間に部活終わったんだよ。遊んでたとかじゃない。コイツだって弓持ってるだろ」
「そんなの関係ない! 二人で帰るなんて浮気じゃん!」
なんと言うとんちんかんな台詞だろうか。だけど、恋人が他の女と並んで歩くのを見せられたのだから無理もない話なんだろうな。
「……あのー。私、花巻くんとはそういうのじゃないので」
見かねた私は貴大を「花巻くん」と呼ぶことで距離を取り、なおかつ無関係を装う努力をした。……装うっていうかそもそも無関係ですが。ただ家が近いだけの幼馴染だし。私が勝手に片想いをこじらせているだけだし。
鈴木さんはジトリと私を睨んだのち、ギラリと貴大を睨んで「ほんと?」と問いかけた。貴大が肯定する前に私が首をブンブン縦に振った。こんなくだらない一触即発は早く終われと祈りながら。
なのに、なのに貴大は私の努力を無駄にする言葉を放ってしまった。
「いいよすみれ。他人っぽくしなくて」
壊れた人形のごとく首を振っていた私の動きはぴたっと止んだ。そして鈴木さんはというと落雷を受けたような、とにかく漫画のヒロインが大きなショックを受けた時のように目を見開いて震えていた。
「何それ……他人ぽくしなくていいって何。ほんとに浮気なの!?」
「浮気じゃないよ」
「じゃあ何でっ」
「でも俺、里奈のこと本気になれないわ」
再び鈴木さんの背景に落雷。ついでに私も同程度の衝撃を受けた。
「え……」
「やっぱ付き合うのやめよ」
淡々と追い討ちを放つ貴大の姿が、こんなにも冷たく見えたのは初めてかもしれない。
それからの鈴木さんは感情的に言葉をぶつけてくると思いきや、貴大と二言三言交わしたあと、魂が抜けたようにふらふらと歩いて行った。取り残された私たちの間にはなんとも言えない空気が。
「……私は何を見せられたのでしょう」
「いやー悪い悪い。修羅場った」
「私あの子と同じクラスなんですけど明日からどうすれば」
「どうもしなくていいよ」
ふざけた返事だと思ったけれど、貴大の声も顔もふざけていない。それどころか未だにピリピリしていた。こんな様子の貴大を見るのはいつぶりだろう。
「……なんかビックリしたな。貴大でも女の子に怒ったりするんだね」
私はあくまで場の雰囲気を和ませるため、なるべく言葉を選んで言った。どんな形であれ一組のカップルが破局したことに変わりないんだし。
「なにそれ。俺のこと菩薩だと思ってんの?」
「菩薩だとは思ってない」
「そりゃ怒るっしょ。すみれと並んでんの見られただけで浮気とか」
「はは……」
「ま、さすがに女の子相手にイラッとしたのは久々だな。昔すみれにイラついて以来かも」
ようやく笑顔になった貴大だったけど、私は逆に固まった。「あ、やっぱり今イラッとしてたんだ」っていうのもあったけどソコじゃない。
「私のこと女の子だと思ってたの?」
「何すかその疑問?」
「え、いや……だって……」
貴大が私を「女の子」と認識していたのは、幼稚園の時だけだと思っていたから。結婚の口約束をした時。それ以降は私を女扱いしなかった。小学校の登下校の時は二人でやんちゃして怪我しまくっていたし。……中学からは知らないけど。知らなかったけど。まさか今もなお貴大が、私のこと女の子だって思ってる?
「……なにその顔」
その声と、いつの間にか近寄っていた貴大の顔にびっくりして我に返った。やばい。私、どんな顔してたの。
「や、見ないで」
「見せて」
「無理」
「見せろ」
反対側に顔を向けて逃げようとしたのに、貴大が大股で回り込んできたせいで無駄になった。ほんと、いつの間にかそんなに大きくなりやがって。背が高くて足も長くて声が低くて顔も格好よくなりやがって。真っ赤になっている自覚がある私は、貴大にガッツリ顔を見られる前に思い切り足を踏み出した。
「……帰る」
「あっ!? 待てよ一緒に帰る雰囲気じゃん」
「つつっ、ついて来ないでっ」
私が中学ぶりの「ついて来ないで」を発したのに対し、貴大は「デジャブ」と大笑いしながら付いてきた。たった今彼女と別れたくせに元気なやつめ。
だけど私、本当は嬉しくて仕方ない。貴大と交わした「大人になったら結婚しようね」の約束が、もしかしたら可能性ゼロじゃないかもって思えたから。