指折るプリズムラッシュ
互いの進路が決まり、それがまったく別の場所であると分かった時、このまま付き合い続けるべきかどうか考えた。正直言って進路のほうがすんなり決まったくらいである。
自分が恋人のことでここまで頭を悩ませる日が来るなんて思わなかった。離れたくない、でもそれは絶対に無理。別れたくない、でも東京と大阪という距離でずっと想い合える自信はない。
……と言うよりも離れ離れになった時、俺は彼女の心を繋ぎとめておけるか分からない。俺の心が離れることはないだろうけど、向こうが俺を好きでなくなった時が恐ろしいのだ。
そんな悩みはありつつも卒業の時は訪れて、俺は東京へ・すみれは大阪へ引越すことになった。最後に会った時にはすみれも俺も涙を流すことはなかったが、東京のマンションで迎えた初めての夜には、信じられないほど寂しい気持ちになってしまった。
どうしてもすみれの声が聞きたくなって電話して、少し話して電話を切って、そのあと一人で眠りに付こうとした時、「もう気軽に会おうとは言えないんだ」というのが頭に浮かんで、その時初めて泣きそうになった。というか、こっそり泣いた。
彼女を想って涙できるような心が、俺にも残っていたらしい。
『友だちできた?』
すみれとは毎日メッセージのやり取りは行っていて、時々は電話もする。「今日はこんなことを習った」とか「こんな行事があるらしい」といった話がほとんどだが、今日のすみれはこんな質問をしてきた。
友だち、と呼べるような知り合いはできていない。当たり障りなく接してはいるが、もともと周りに壁を作ってしまう性格なので。
『できてない』
『やっぱり(笑)』
どうやら答えの予測できた質問だったらしい、語尾に(笑)を付けて送られてきた。
『すみれは?』
その(笑)にはノーコメントとして、俺も彼女の新しい交友関係について訊ねてみた。すみれは比較的社交的だから、もう何人かは友人を作っているかもしれない。白鳥沢の卒業式では、女子数人集まって別れを惜しんで大泣きしていたっけな。
『まだ友だちとかじゃないけど、なんとなく仲良くなれたかなって子はいる』
俺の予想はほぼ当たっていた。すみれは一人きりで行動するのが不安なほうだから、さっさと友人を作ってくれると俺も安心だ。もちろん女友達に限定するけど。
それから何度かメッセージが続いて、すみれからの新しい質問が送られてきた。
『ねー、大学楽しい?』
『楽しくはない。つまらなくもないけど』
『えー、賢二郎勉強すきじゃん』
『好きだけどまだ慣れないなって感じ』
『なるほどね』
すみれからの『なるほどね』という返事は平仮名五文字だけの内容だったけれど、本当はこんな質問には意味がないのだと伝わってきた。大学生活が楽しいかどうかなんて今はどうだっていいのだ。彼女はそんなことを話したいわけじゃない。しかも音声ではなく、入力された文字なんかで。
『あのさー』
ついにすみれは本題を話そうとしたらしく、たて続けにメッセージの吹き出しが表示された。
『電話したい』
今度も五文字。これは完璧に予測できた内容だったし俺も同じ気持ちだったので、すぐに行動に移した。すみれへの電話を発信しながら俺は思った、通話料金を気にせず電話できる時代に生まれて良かった、と。
『もしもし!』
すみれは俺が発進ボタンを押してスマホを耳に当てたのとほぼ同時に応答したらしく、すぐに大きな声が聞こえてきた。
「出んの早いな」
『だって! だってさあ! 私からかけるかどうか迷ってたから! ねえ賢二郎、元気?』
俺から電話がきたことがよほど嬉しいのだろう、何を喋るのか用意していなかったのが伺える。俺自身あまり態度には出さないが新生活の疲れや不安がゼロではないので、すみれの声を聞きながら心が満たされていくのを感じた。
「元気だよ。すみれは?」
『元気!』
「関西弁とか移ったりすんの?」
『えー移らない……と思うけどなあ。仲良くなれそうな子っていうのも、関西の人じゃないから標準語だし』
「へー……」
そういえば入学式の日に電話した時、関東の子の隣だったとか言ってたな。だけど地元の生徒も多いから周りでは関西弁が飛び交っているとも聞いた。すみれに訛りが移ったら俺は、たいそう笑ってしまうに違いない。聞いてみたいような、聞きたくないような。
すみれが関西弁になったら、なんて心底どうでもいいことなのに、何故か楽しくて仕方ない。あったかい気持ちになる。普段は改まって実感することじゃないけれど、好きだなって思えた。
『どうしたの?』
俺が電話口で無言になったので、すみれが探るように言った。電波が飛んでいるのではと思ったのかもしれないが、問題なくすみれの声は届いている。そのうえ、その声のおかげで疲れが和らいでいる。
「声聞けてよかった。と、思ってた」
自分でも驚くほどスムーズに、恥ずかしげもなく出た本音。心から「すみれの声を聞けてよかった」と思えているからこそだが、なんと当の本人からの反応が聞こえない。まさか本当に どちらかの電波状況がおかしいのだろうか?
『……』
「……おーい」
『……や』
「すみれ?」
『やだ……』
「は」
電波が途切れ途切れなのか、単にすみれが途切れ途切れに喋っているのか。意味が無いことだとは知りつつもスマホをぐっと耳に押し当てた、その時だ。
『賢二郎、離れてる時のほうが優しい』
嬉しいのか悲しいのか分からないような上ずった声ですみれが言った。離れてる時のほうが優しいとは、なんとも聞き捨てならない台詞である。
「……俺はいつも優しいだろ」
『優しくないよ! そんな素直に言ってくれたりしないじゃんっ』
「そ……」
そんなことない、とは言えなくて言葉が詰まる。確かに俺は会いたいとか好きとか声が聞きたいとか、そういった類の気持ちはなかなか言葉にできない質だから。対してすみれは正直に口にしてくれるので助かっているが。
『会いたい』
お願いするようにつぶやく声が聞こえた。会いに行ける距離ならもちろん飛んで行くけれど、東京と大阪じゃ簡単には行かない。時間もお金もかかってしまうから。
「ゴールデンウィーク、地元帰るだろ。そうすりゃ会えるんだから」
『そうだけどそうじゃない』
今度はすみれのむっとした声。
半月後に訪れる大型連休には二人とも宮城に帰るので、その時に会おうと約束している。だからもうすぐ会えるだろうと言ってみたのだが、残念ながら彼女の望む受け答えではなかったようだ。
『賢二郎は?』
俺の言葉を促すすみれの声は、甘えてくる時のうるうるした瞳を想像させられた。
そうか、すみれは俺にも言って欲しいんだ。俺が自分と同じ気持ちであると確かめたいのだ。
そんなの死んでも言いたくない、男が「寂しい」とか「会いたい」とか簡単に言うもんじゃない。と、 思っていた。高校を卒業する前までは。
「……あんまり、離れても寂しいとか悲しいとか思わないだろうなって思ってたけど」
こんなふうに自分の気持ちを素直に言えるのは、遠距離恋愛がもたらす唯一のメリットかもしれない。
「寂しいし悲しいし、すげえ会いたい」
面と向かって言えない気持ちを告げると、すみれの言葉はまたもや途切れた。が、今度は電波が原因でないことはすぐに分かった。泣いてるのか悶えてるのか分からないが、唸るような声が聞こえてきたので。
『……っもう』
「何?」
『今の録音しとけばよかった』
「やめろ」
『賢二郎に会うの楽しみにして、ゴールデンウィークまで頑張れる』
やや鼻声になっている声は、すみれが泣くのを堪えている証拠だ。
俺に会うのを楽しみに頑張るなんてこの上ない光栄で、俺も同じ台詞を返したいところだけど。嬉しくて、同時にニヤけてしまって、「すみれに会えるのを楽しみに俺も頑張るよ」なんて長ったらしい言葉を言う余裕なんかなかった。
早く会いたい、とにかく会いたい、あと半月も待てない。さすがにコレは言えないけれど、次に会った時はあまりツンとした態度を取らずに接することができそうだ。